こう言った物を若いころから作っていると、よく骨董品を見本に持った人に「こう作らないとダメ」ってマウントされます。

意味や合理性があれば私も成るほどと思うのですが、そうじゃないからただの偏狭な趣味のマウントなんですね。

ダメだし骨董親父を「骨董マウント✕将軍」と呼んでます。

とにかく、世の中の想像を超えてそういう人の多さは日本は変なんです。それも家元のようなエライ人から財閥コレクターのような人まで。頼まないのに来ちゃうから不思議です。

結局「下請けになれ」みたいな話の持って行き方なんですが、「本質的な景徳鎮らしさ」「品質」「茶器としての機能」が守れないので嫌がらせのされ損で何十年同じことです。今では世代交代でSNSの半可通というか素人にかき回されています。

私も骨董の良さを知らないわけでは無いです。故宮関係の仲間や国営オークション関係の仲間もいるし、彼らや昔の大官文人の子孫や博物館の館長たちと何千万、億と言う美術骨董のプライベート鑑定会などしたりしますよ。私が琴を弾いて故宮の先生が洞簫を吹いたり、またその逆も。漢詩作る人もいればその場で山水画描く人もいます。私自身も何千万、億という代物の鑑定立ち合い頼まれることもしばしば。世界観は知ってます。

だけど身の回り全て拾ったり金で集めた骨董で固めようとは思いませんし骨董が全て最高を示すとは思えません。骨董は馬子にも衣装でそこらに並べて主人が髭でも生やせばそれらしく見えるので胡散臭い人もご立派に見えてしまいます。予算次第で決着がつく世界でもあり、芸が無いというか、これがものの作り手なら、髭を生やしても知識や技術が本物でなければやることがすぐに失敗なわけで誤魔化しが利かない。製作サイドにいると、そういう爽やかでウソの通じないところに居るのが心地よいのです。骨董好きが悪いということではなく、骨董の威を借りて蘊蓄のみで本質を学ばない人が多すぎて反吐と言ってるのです。またそういう私も土一つ捏ねられないのです。

謙虚にモノづくりしている人々に向き合いたいものです。皆それぞれ今それをする意味があるのです。

どうも作り手を差し置いて、新旧製品を扱う中間搾取の業者側が偉くなりすぎてはどうかという、懸念もあります。実際手を動かして頭を使って物を作る人のみが知りえるものこそに真実が多いのです。外野が自分が信じた物だけをチョイスしたり押し付けるのは一歩手前で立ち止まって、もう一度俯瞰してみる方が良いと思うのですが。私もそうしています。それが景徳鎮で良好に皆と仕事がしてこられた鍵でしょう。ただし本物で、それ以外は譲らず。