しかし、口腔の機能である咀嚼という観点からすれば、噛み切るのは前歯、噛み砕くのは小臼歯、噛み潰すのは大臼歯の役目であり、健康な歯、噛み合わせがあって、はじめておいしいものをおいしく食べられるのです。

ことに、日本の食文化を楽しむためには、しっかりした大臼歯までの歯、その正しい噛み合わせが必要です。最近、北欧には大臼歯の欠損は補綴しなくてよいという風潮があります。

ソースにほとんどの味成分が含まれているので、そんなに頑張って噛まなくともよいというのでしょうか。

噛んで味わう日本の食文化、食材を単味で味わう私たち日本人には考えられないことです。しつこいタレやソースをかけてしまって、鮪もフグもわからない食事はしたくないし、そんな日本人にはなりたくありません。

西欧の代表的な料理はフランス料理でしょう。フランス語で料理のことをキュリネールといいます。その語源は「火を通す」ということだそうです。

日本では、魚をまず生で食べることを考えますが、志摩観光ホテルの料理長・高橋忠之は次のように述べています。

「さかなというものは、自分の能力と技術によって作り変えることが出来る。料理人としてチャレンジするにはいちばんいい素材である」。

したがって、フランス料理では素材を一度壊しても、素材より高価な伊勢エビやキャビア、フォアグラを使ってソースを作ることもあり、まったく新しい味を作り出すことに努力します。

ソース作りのために長い時間を費やすことは当たり前のことです。

したがって、フランスには「ソースは料理のかなめである。これこそがフランス料理を世界に冠たるものに創り上げてきた」(エスコフィエ)や「イギリスには3種のソースと360の宗教があるが、フランスには宗教は3つしかないが、ソースは360種もある」(タレーラン)と、いかにもフランス人らしげ自慢げな格言があるくらいです。

ソースは幾銭とあり、おいしさのベースをソースに求めている食文化といえます。日本料理を「出汁の文化」といいますが、西欧料理は「ソースの文化」といえるましょう。日本料理は「一物には一物の味があり、混ぜ可ならず」(袁枚)、「第一、天然の配合に近づける」(村井弦斎)、「すべて持ち味を壊さないのが要快である」(北大路魯山人)といわれているように、食素材そのものを単味に、シャープに演出するのが基本です。食素材それ自体が主役で、外部から添加された味というものは、あくまでも脇役に徹するのが日本料理です。

「料理の醍醐味とは食材をよく見極め、できるだけ手を加えず、足りないものを足すだけでよい。そのとき何が足りて、何が足りないのか見極めるのがプロである」といわれています。

そのもっとも代表的な調理が刺身です。前述のとおり、フランス語のキュリネールは「火を通す」、英語のクックもクイジーンも「火熱を使う料理」を意味するということですから、日本の代表的な料理、刺身は料理の範疇には入らないことになります。

単に醤油とわさびで、その魚自身がもつ旬のおいしさを生のままで食卓に運ぶわけですから。

また、それを私たちが楽しんでいます。鯖なのか、鯵なのか、さよりなのか、きすなのか、それぞれの味も歯ざわりも知っているのがわれわれ日本人です。

煮ても焼いても、肉であれ魚であれ、見てもわかり、食べてみてもそれ自身がもつ特有な味、食感を失わないように調理されており、それをわれわれは楽しんでいます。

ところが、先日寿司屋で若い娘が目の前の鯖(皮が付いているのに!)を指指し、「おじさん!これ何?」。「へーえ。さばなんだー」には、「えっ!」と疑いたくなる不安を感じました。