Chiaki SomaさんのTweet、以下引用

 

2020/5/4

 ほぼ1ヶ月半ぶりに地下鉄にのって、これからトークを配信する会場に。この、世界と自分の関係が異様な高揚感と緊張感に包まれる感じ。それは子供を産んだ後、はじめて「そと」に出た時の感覚そのものだった。自分がいったんあの世に行って、戻ってきたら世界も変わっていた、みたいな。

 

5/5

 いかに非人間的なものに感覚や言語を開いていくか。妊娠出産という生と死のイニシエーション、病者から見た世界と時間、円環する時間、「うち」と「そと」、免疫の強くなり過ぎた個と共同体、折口信夫のまれびと、井筒俊彦の憑依、スピノザの神即自然、土方巽、アルトーのペスト、仏教における如来蔵思想、などなど、コロナ後の世界でもう一度内側に取り込み自分自身を変異させていくウィルスのような思考が、どんどん自分の中にも流入し、かき回していく感覚。 こういうトークは、今しかできないなと。

 昨日のトークで、病める身体から世界を捉え直す、という話をして。土方巽の「病める舞姫」のように、異物や他者を自分の中に受容しながら変異していく可能性の話。

その後、夜中から今までお腹が痛くて寝込んでいる、、、というシンクロし共振を起こしてしまうほどに、、、

 

5/7

 自分が消失してもいいくらいの快晴。 自己以外、人間以外の声を聴く。 それはすでにそこにあり、私たちが聴いていなかっただけのものかもしれない。動物、植物、鉱物、死者…。 それらを聴くための装置や回路を開き直すこと。 そこに「場」が生まれる。

 

 イニシエーションのような妊娠出産体験を経て、中村さんは「生も死も足りない」と言った。すべてのものに線が引かれ、分離され、管理される中で、それを乗り越えていくために、私たちはどのように感覚を開き、「発生」の現場を想起し、そこから思考し直すことができるのだろうか。

 言葉は論理・意味であると同時に、呪術であり象徴である。他者の言葉を受容する時、私たちは超越的なものを想像・創造する可能性を持つと同時に、ある種の狂気や変調にも陥る危険がある。ではその言葉を、いかに再び他者に開いていくのか。

 ウィルスのように、破壊と進化が表裏一体なものとどう共生していくのか。異物を自分の中に取り込み、通過させ、非人間的な存在に変容する。そういう状態、つまり「憑依」に芸能や宗教や思想の始原はあるのではないか。ウィルスは人間の「発生」の根源的な部分に私たちを誘う。

 

 中村さんのいう「未現像の風景」。そこに映り込んでいるのに、まだ潜在的な可能性でしかない風景たち。記憶や夢のように、そこにあるのに手つかずのままある。風景として立ち上がる対象は、所与のものではなくて、まだ未然のものとして、可能性としてある。それを顕れる形にする繊細な作業。

「うつす」は、感染す、写す、移す、映す。 もともとの意味は「空っぽにする」ということらしい。 その空っぽのところに、出たり入ったり。移り変わっていく。変身。変形。 そこに芸能や演劇の起源もあるのかも知れない、という話。

 現在と過去、聖者と死者、人間と人間以外の生命や物質。 様々に異なる状態のものを呼び寄せ、そこに共存させてしまうのが芸能であり、古代から続く舞台の力でもある。 その力をコロナ禍の現代に読み直し、更新する作業が必要なのだろう。

 

 先日のトークの議論をいろいろ反芻しながら。 感覚的に掴んでいることを言語化したり、またその逆に、言語のエネルギーにあるものを感覚に解放したり。 でも総論からいうととても孤独が深まり、私はやっぱり非人間的なものよりも人間と触れたいし人間と話したい、そういう正直な気持ちにもなっている。

この1〜2ヶ月、自分は何に慣らされ、何を受け入れ、何を諦めたのだろう。 世界中みんなが我慢しているから、という理由で、自分も必死で我慢して。 でもそこではみ出してしまうような、こぼれ落ちてしまうような声や痛みまで、ずっと見て見ぬフリをして。 今、その傷口が化膿し始めている。