コロナと「残酷」。

『演劇とその分身』(アルトー)…、演劇が制作する、私たちの現実のその「分身」…、

コロナとその分身…、いや、コロナこそが私たちの分身である。そしてそれこそが「〈生〉の残酷」であり「〈死〉の残酷」である。その残酷さを「夢」と言ってもいい。絶えず生成変化する、欲望とトラウマの反乱する、「夢」の「残酷さ」。

 

 

-----

K/Mの踊りは、まさに差異と反復だった。「起源」を持たない踊り。

 

『未来の演劇と新しい哲学』

「反復は常に差異 を伴って現れるが、本当はいつも何か同じものが反復されているに違いなく、奇 妙な衣服や仮面を根気よく剥いでいけば裸の本体が見つかるというわけである。 その場合、死の本能が課す悪魔的かつ定言的な反復はすべて、生命なき物質への 回帰という一つの同じ目的=終局( n)に従事していることになる。だが、ドゥ ルーズによれば事態は逆である。実際には、絶えず差異化しながら反復していく 運動、絶えざる脱根拠化としての生成変化の運動があるだけであって、反復され るべき最初の項や究極的な起源とは、差異と反復の戯れ=演技=賭け(jeu)が 後に残す「光学的な結果=効果(e et optique)」たる錯覚に過ぎない。すべてが 本質なき仮象、起源なき変容、素顔なき仮面、原本なき異本、裸の本体なき衣 服、オリジナルなきシミュラークル(simulacre)の連鎖である限り、究極の起源 やオリジナルとは「見せかけられた(être simulé)」ものに過ぎないのだ」(p75)

「死の本能、それは生命なき物 質への回帰ではなく、革命の反復を希求する過剰な欲望の奔流だ。したがって、 そのたび毎に差異を孕んだ反復、それは永久革命としての永遠回帰の運動のこ とに他ならない」 (p77)

 

『ドゥルーズとフィクションの問題』

「奇妙な演劇が純粋な規定から作られるのは、時間と空間を揺り動かし、魂に直接作用し、亡霊を俳優とすることによってである。そしてこうした演劇を指すために、アルトーは、「残酷」という言葉を選んだのである。そうした抽象的な線はあるドラマを、すなわち、しかじかの概念に対応し、同時に概念の種別化と分割とを司るあるドラマを形成する。(ドゥルーズ「無人島」)」(p12)