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普段、私たちが受けている高度な医療。
その進歩の裏には、自らの体を医学の発展のために捧げる「献体(篤志解剖)」という尊い意思があります。
実は、日本で最初に献体を行ったのは、幕末から明治にかけて激動の時代を生き、20代という若さで亡くなった一人の遊女でした。
彼女の名は、美幾(みき)。
今回は、彼女の切なくも尊い生涯と、現代の医療倫理にまで脈々と受け継がれている「ある約束」についてご紹介します。
家族のために生き、若くして病に倒れた美幾
1836年(天保7年)、現在の東京都文京区向丘(駒込追分)の地で、美幾は生まれました。
幼い頃から奉公に出ていた彼女ですが、父親が怪我をして働けなくなってしまったため、家族を養うために遊廓(ゆうかく)で働くことになります。
家族を想う優しい女性だったのでしょう。
しかし、過酷な環境の中で、美幾は当時特効薬のなかった「梅毒(ばいどく)」に罹患してしまいます。
現在の東京大学医学部の前身にあたる病院(黴毒院)に入院し、治療を続けましたが、病状は悪化する一方でした。
そんな中、治療にあたっていた医師から、ある願いを託されます。
それは、「医学の発展のため、亡くなった後にその体を解剖させてほしい」というものでした。
自らの死期を悟った美幾は、その求めに応じる決断をします。
彼女の遺言には、両親と兄も署名を添え、東京府(現在の東京都)へと届け出られました。
明治政府が突きつけた条件「厚ク相弔ヒ遣ルベキコト」
当時、まだ前例のなかった「生前の意思による遺体提供」。
明治政府はこの届け出を認めましたが、その許可書には、ある重要な一文が付け加えられていました。
「厚ク相弔(あいつむ)ヒ遣(つか)ハスベキコト」
これは、「(解剖は許可するが)くれぐれも手厚く供養しなさい」という美幾さんの願いを込めた言葉です。
医学の発展のためとはいえ、遺体を単なる「物」として扱うのではなく、一人の人間として、そして尊い決断をした故人として、最大限の敬意を払い、心を込めて弔うこと。
これが、国が認めた絶対の条件でした。
150年以上経った今も、変わらない大切なこと
美幾さんが日本初の献体となってから、長い年月が経ちました。
現代の献体制度は法律でしっかりと整備されていますが、実は当時から全く変わっていないことが2つあります。
1. 「家族の同意」が絶対であること
美幾さんが遺体を提供する際、父母と兄が連署(一緒にサイン)をして国に届け出ました。
現代でも、本人の意思だけでなく、家族や親族の同意書がなければ献体を行うことはできません。残された家族の気持ちに寄り添う姿勢は、この時から始まっていたのです。
2. 「手厚い供養」が行われること
現代の医大や大学医学部でも、献体された方々のための慰霊祭が毎年欠かさず執り行われています。
学生たちは、解剖実習の最初と最後に必ず黙祷を捧げ、感謝と敬意を胸に学びを進めます。まさに「厚ク相弔ヒ遣ルベキコト」の精神が、今も医療の現場に生き続けているのです。
おわりに
家族のために尽くし、最後は未来の患者たちのために自分の体を捧げた美幾さん。
彼女の墓所は、現在も文京区の念速寺にあり、東京大学医学部によって今もお墓が守られ、命日には供養が続けられているそうです。
私たちが当たり前のように受けている医療の土台には、美幾さんをはじめとする、多くの先人たちの尊い決断と、それを大切に守ってきた「供養の心」があることを、私たちは忘れてはなりません。

