こんなに苦しむんだったら、
 

出会わなかったらよかった。
 

他人のままでいたら、良かったのに…
 

愛が深まり過ぎて、
 

独占欲が強くなり過ぎて、
 

行きつくところまで行ってしまった
 

悲しい「事件」の報道を見ると、
 

愛が決して人を幸せにしないなぁ…と
 

日々愛の道を説く私は罪人かしら?と、
 

心を痛めます。
 

私もたくさんの愛のフィナーレを
 

体験して来ましたが、
 

犯罪一歩手前、はありましたよ。
 

だって、私は情が深いから。
 

私の自慢?は、
 

好きだと思って付き合った人を
 

自ら決して嫌いにならないこと。
 

例え相手が車椅子になっても、一生
 

押し続ける自信があることでした。
 

そういった、腹をくくった想いとは
 

うらはらに、みつきもすれば、相手の
 

心が離れて行くのを感じます。
 

今であれば、それは『想いの黄金比』が
 

崩れているせいと分かるのですが、
 


当時は、愛すれば愛しただけ、
 

尽くしたら尽くしただけ、
 

愛が深まると信じていたのです。


そう信じないと、


私自身が生きられなかったー😅
 

それはオカンですし、めっちゃお節介BBA
 

としか相手には見えてなかったのでしょうね(笑)
 

頼まれてもいないのに、
 

あれやこれや世話を焼くことは、
 

相手が信頼できていない証拠だったと今は
 

わかります(;^_^A
 
 

私の愛のフィナーレは【自爆テロ】に似て、
 

勝手に愛の裏切りだと思い込んで、
 

魚雷のように突っ込んで玉砕するのです。
 

それはあなたのイメージにお任せしますが…
 

「途に倒れて だれかの名を
呼び続けたことがありますか?」
 

を地で行っていたのです。
 

結局私は、なんやかや言って、
 

確信犯だったのかも知れません。
 

さよならを重ねる毎に、私は、
 

失恋の美酒をあおりながら、
 

自分というものをみつめ、
 

確立して来たのかも知れません。
 

いま、恋人との別れについて傷心されていたり、
 

闘っていらっしゃる方も、ほんとうは
 

【自分のための恋】を
 

していたのではないでしょうか?
 

話は戻りますが、
 

『想いの黄金比』についてです。
 

自分勝手にオナニー的な愛を押し付けて
 

玉砕していた私は、遅いですが、40代後半で
 

そのことに気づきました。
 

お節介BBAと思われても、嫌われても、
 

気付かぬふりで、相手に恩を着せて
 

グウの音も出ないよう、
 

逆らえないようコントロール(洗脳)する。
 

それは無意識ですが、つまりは
 

コンプレックスの裏返し。
 

自分に自信があれば心にも余裕が、
 

心に余裕があれば縛り付けず、


相手の波長、
 

『想い度合い』に合わせることが出来た
 

はずです。
 

見事に「寄り添う」、とはそういう
 

バランスの取れた
 

需要と供給のことを言うんですね。
 
 

低レベルの愛は決してうまく行きません。
 

真実の愛に触れて、触れられて、
 

心を開ききって裏切られた時、
 

絶望の淵に立たされるのがわかるからこそ、
 

私は浅はかな恋で悲劇のヒロインを演じて
 

いたのでしょう。
 

それは私の思い違いだったのだけれど。
 

【愛のフィナーレ】は一皮むけるセレモニー。
 

足りなかった『理解』に気づく時。
 

一番美しいのは、出会ったことに感謝して、
 

分かれた理由はともあれ、
 

清々しい気持ちで、「元気でね」と
 

言えることではないかしら?
 
•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•
 

恋の 終わりは 涙じゃないの
 

それは思い出の はじまりなのよ
 

知っていました 別れはくると
 

だからいいのよ いいわけなんか…


•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•˳୭❃̥˚•
 
 
どんなに打ちのめされても、
 

恋することをやめなかったのは、
 

【愛は労わり合うこと】ということが
 

腑に落ちるまでの長い旅路だったから
 

なのでしょう。
 

真実の愛は、静寂にも似て。
 

さりげないもの…