『なぜ私はひとりで歩いてしまうのか?』

昭和61年3月、寝台特急出雲に乗って、私は東京に出て来た。


自身のセクシャリティーの問題もあり、鳥取の片田舎での生活は最初から考えられなかったし、京阪神地域の就職では田舎に近すぎる。


つまり、私はまったく違う人生を生き直したかったのだ。


親を失い、養護施設で暮らした私を見送ってくれたのは高校の同級生3人だった。ブラスバンド部で仲良くしていた仲間だ。


粉雪舞う停車場で、私は悲しいでもなく、ようやっと解放された、ようやっと自分の人生が華々しく始まると曇りガラス越しの友人たちに手を振った。


洋服を買っても、散髪に行っても、○○子供学園の領収書を切って貰う、札付きの人格からの解放。


しかし私に最早頼れる人は誰もいなかった。


【だから私はひとりで歩いてしまう。とっとと歩いて行ってしまう。きっとそうだ。】


東京に着いた私は、擦り切れたジーパンに、趣味の悪いジャンパー姿で、初めての渋谷に降りてみた。渋谷は田舎者の私には憧れの地だった。


寮生活の始まる私は、会社の集合時間までの間、5分もせず電車の来る。


そしてどの電車も乗客で溢れている東京にカルチャーショックを受けながら、それでも田舎者がバレないように、迷っても迷ってもよそ見をしないで真っ直ぐ歩いた。


人に道なんか聞けません、東京は生き馬の目も抜くという。


ほんとうを言えば、とても不安だった。


ファミレスチェーンの仕事がどんなものか?ステーキなんか食べたことのない自分が、お客様のテーブルにステーキを運ぶ時、ヨダレが垂れたらどうしよう、などと18歳なりの不安が頭を過ったりする。


けれど、お財布には、おそらく国からの支度金だと思う10万円が入っていた。一度も手にしたことのない大金だ。リユックのお財布を確認したら、少し安心したりした。


その後の25年、私は紆余曲折ありながら今日まで生きた。引っ越しの回数だって裕に20回は超える。それだけ色んなことがあったのだけれど、たくさん傷つき、心を閉ざし、たくさん傷つけた。


けれど、私はいつでも『この街で生き抜く』ことをテーマにしてきた。


それが40歳で自殺してしまった父親に対する供養のような気もしたので。



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