ソン・ガンホに戻って、ハングルを創った世宗(セジョン)大王と周辺の人々を静かに描いて秀作…「王の願い -ハングルの始まり- (国の言葉*後述)」

 

干魃が続く朝鮮、4代王世宗(セジョン)の下、雨乞いの儀式を行なっている。側近が読む祈りの言葉は漢文だ。世宗は、それでは朝鮮の龍神に通じない、朝鮮の言葉で祈るように、と命じる。やがて黒雲が湧き、雷鳴が聞こえる。雨の夜、王の居室。世宗は長年かけて編纂してきた書物を雨の中に投げ捨てる。王妃が止めるが、民の分からない漢字で書かれた書物は屑だという。そんな時、日本の僧侶たちが訪れ、先王が約束した八万大蔵経の板木を譲ってほしいと嘆願する。儒教を奉じる朝鮮王として世宗は苦悩する。王妃は、京畿道大慈庵(テジャアム)の老僧を訪ね打開策を探るが、老僧は大蔵経を収める海印(ヘイン)寺のシンミ和尚を紹介する。シンミ和尚は上京し、板木は木片に過ぎない、なぜ自ら彫ろうとしないのか、とサンスクリット語で日本の僧侶を説き伏せる。その様子を見ていた世宗は、美しいサンスクリット語での読経に感銘し、共に民にも分かる文字を作ろうとシンミ和尚に持ちかける。ここに、新しい文字や仏教に反感を持つ宮廷での困難な文字作りが歩み始める…

 

朝鮮4代国王世宗(セジョン)大王に、ソン・ガンホ、シンミ僧侶に、四十代半ばになって静かな貫禄パク・ヘイル、王妃昭憲(ソホン)王后に、残念にも亡くなられた美形チョン・ミソン、訓民正音の後書を記す鄭麟趾(チョン・インジ)に、味わい深いバイプレーヤー、チェ・ドムン、若い僧侶ハクチョに、ミュージカルの実力を活かすタン・ジュンサン、若い宮女イ・ジナに、キュートなクム・セロク、老僧に、60年代からの演劇人オ・ヒョンギョン。

 

まずは、おそらく初めての経験、血が一滴も流れない韓国時代映画に感銘を受けました。熱い信念や深い憂慮を秘めながらも、静かに、淡々と文字作りを追う物語は、ある意味映画的ではないにも関わらず、非常に快い時間です。まずは言葉を集めて分析し、子音を整理し、唇・喉・舌・歯の使い方から形を決め…とそんな極めて合理的な過程は穏やかな映画時空間を作り上げているでしょう。サンスクリット語の不思議な響き、若い僧と宮女のハングルでの語らい、ハクチョを演じるタン・ジュンサンの美しい鎮魂歌などのシーンも、激しい映画で忘れていた映画の別の側面を思い出させて心地よいと思います。

 

この映画の公開を待たずして自ら逝ったチョン・ミソンについて一言。この映画では折れそうになる世宗を支える主演といっても良いほど重要な役割を凜として演じていますが、本当に残念に思います。「恋愛」という知る限り唯一の主演作での輝きは圧巻でしたし、名作「8月のクリスマス」ハン・ソッキュの初恋の人「殺人の追憶」ソン・ガンホの耳かきをする女など少しの登場にも関わらず発揮されるその美しい存在感は余人をもって代えがたいでしょう。韓国映画を離れていた5年間での、キム・ギドクと並ぶ、圧倒的な喪失感です。

 

韓国では、ハングル作りに仏僧が主要な役割を果たしたとするのは史実ではない、などの論争が起きているとのことですが、純粋に映画として観るならば、王の息子や下臣たちの存在感が希薄な感じが拭えないので、五つ星にはやや足らず、惜しい、といったところです。

 

なお、原題「나랏말싸미」という見慣れない言葉ですが、現代の「나라의말씀(国の言葉)」の当時の書き方にならった表記とのことです。日本的に言えば「日の本(ヒノモト)の言の葉(コトノハ)」みたいな感じになるのかもしれません。