これまでの記録で、私の両親が肉親の情をJWの規則より優先したあったかい人みたいに書いてますが、
実のところは顔を合わせればため息、
二言目には「ほんとはふさわしくないんやけどね」
「あんたが戻って来てくれたら堂々とできるのにね」
と言うぼやきを毎日聞かされていました。笑
それでも、そう言いながらも結局は助けてくれたのです。
だったらぼやくなよ、とは特に男性陣は思われる方も多いでしょうが、
「だから言うたやろー!何回忘れ物したら気ぃ済むねん!」と言いながら学校に忘れ物を届けてくれる、
うるさいけどちょっと甘いその辺のおかんと変わりないのだと私は認識しています。
え?私ですか?
子供が忘れ物したら本人の責任ですから届けませんよ!
「ほら言うたやろ」で終わりです。だって4人分届けとったら面倒見切れんもん。笑
おかんは偉大やった!!



東日本大震災の年でした。
母親が入退院を繰り返している状態だったので、
その頃生まれていた2人目の子供を連れて、引っ越しを手伝ってくれたのは姉でした。
もう両親には物理的にも精神的にも頼りたくても頼れないんだな、と、
その時やっと実感しました。
その後は精神科の受付をしていた義姉と、
大阪に住んでいた姉が定期的に両親の様子を見に行き、
私は1番経済的にはゆとりがあったので、追加の入院費が必要なら援助する、と言う形で支えて行くことになりました。
母は現在も薬が必要ですが、
私が引っ越してしばらくすると、日常の家事くらいはこなせるように復活しました。
霊的活動も徐々に復活して行ったようです。
そして、酷いうつに苦しんだ母に、長老はそれ以上プレッシャーをかけるようなことは流石になくなったようです。
それ以降は毎年、母校の部活のOB会と、滋賀にいる義実家への里帰りのついでに、
一年に一度実家に顔を出していましたが、
やがて5年ほど前に、もうそれもやめてほしいと言われました。厳しくなったから、との事でした。たぶん、ブロードキャスティングあたりで言われたのでしょうね。
悲しくはなりましたが、
私としては、自分が一番助けが必要な時に全力で助けてもらっていて、
もう必要なくなって、こちらが援助しないといけなくなった時には来ないでいいと言われて、
本当にいいとこ取りしかしていない、としか思えませんでした。
孫の顔を一番見たいのは両親だろうに。
おまけに、あんたは帰ってこんでいいけど、
孫だけ預かるで、と言われて、
夏休みの1週間、子供たち3人を数日預かってもらったり。何や結局甘えとるやんけ
「忌避」と言う決まりは守るけど、
できることは全部してあげたい、と言う気持ちが痛いほど伝わって来ました。
こんな肉親の暖かい気持ちを否定しないといけない、忌避の制度を持ってしか守れない、その程度の魅力しか持たない組織が可哀想になりました。
私はしてもらうばかりで、何も結局両親にしてあげられていない。
こんなに辛い思いを抱えて、それでもJWの中でしか生きていけない両親が哀れで、
同じような思いをしているであろう、活気を失った年寄りばかりの会衆の皆のことも哀れに思いました。
それまでは、どちらかと言うと、JWに戻ってこいと言われないために、全力でJWの嫌だったところ、矛盾しているところを心の中で唱えながら両親に相対していましたから、
自分の中でそう言う余裕を持って憐れむ気持ちが出て来たのは初めての事でした。
結局、親離れがようやくできた、
という事だと思います。
私にとっては、忌避を通じてJWから締め出された、と言うよりは、
単に大人になって自立した、と言う事だと感じています。
それも、巣立つまでの補助輪期間をいっぱい取ってもらって。
単に人として当たり前の経過だったと、今では感じています。
毎年、両親の結婚記念日にお祝いを贈り始めたのは、東京に引っ越して来てからの事。
これまでの感謝の気持ちと、
もう私達はちゃんと自立してやっていけるからね、大丈夫だから、
いざとなれば支えてあげるからね、と言う気持ちを込めて、贈り続けています。
両親の目が覚めた方が幸せかどうかは分かりません。
私だって過去の友達が懐かしいもの。
でも、それ以上に今の家族が大事だし、幸せだし、毎日が楽しい。だから心配しないで。
両親が思うように生きてください。
かき回してごめんね。
育ててくれてありがとう。愛してくれてありがとう。
いつか、忌避なんてしないでもいい日が来たらいいな。
来ない気はするけど、それでもやっぱり願って止みません。