結婚後、しばらくは連絡を取ることもなかった私達親子ですが
やがて第一子を授かりました。
授かってまもなく、実家に知らせる間もなく、ものすごい悪阻が始まりました。
当時旦那は出張の多い仕事で一ヶ月のうち家に帰ってくるのはほんの数日。
旦那の実家は電車で4時間もかかるし(水口、超交通の便悪いよね。よくあんなとこに大会ホール建てたな)おまけに義父母は共働きで頼れない。
私は脱水症状ギリギリまで追い詰められてしまいました。
実家に孫が生まれること、悪阻でほとんど何も食べられない事を手短に報告すると、
30分後には父の車がやってきて、そのまま私はあれよあれよという間に実家にお泊りすることが決まっていました。
え?私の忌避の覚悟は??ちょっとまって、うちの団地の向かい長老んちやけど?いいの??
な、たくさんのクエスチョンマークを抱えたまま、里帰りが始まりました。
後から聞いた話ですが、
母は姉を授かるまでに一度中絶と、流産を経験していたようです。あと、私を産んだ時に死にかけたらしい。
「排斥になってても、子供が死にそうになってて他に助けてくれる人もないんだから、仕方ないでしょ!」
のようなことをブツブツと言いながら部屋を整えてくれる母に、呆気にとられながらもものすごく安堵していました。
「妊娠は病気じゃない」叩きが当時大流行していましたので(主に2ちゃんの中でだが)
いざとなったら入院するし、めちゃくちゃしんどいけどきっとなんとかなる!と思っていたのですが、
ありがたく死にそうなふりをして甘えることにしました。(おい)
おかんのマグロカツ、おいしかったー。ほとんど何も食べられへんかったのに、まさかの揚げ物がお腹に入ったときは感激したわー。
しばらくして、どうやら娘は死にそうにないと分かったようですが(爆)
車も持ってなくて、産院への通院も一苦労だったので、結局産まれるまでずっとなんだかんだ家と実家を行ったり来たり、
ずるずるお世話になることになりました。
要するに、家族が病気になってたらその世話をするのは忌避状態であっても当然だ、という理解でよかったのでしょうかね?
私が実家にお世話になっていることは、お向かいの長老にも筒抜けだったようですが、「仕方ないね、お大事に」ということだったようです。
正直、みんなチョロすぎ甘すぎだと思います。
まぁ、甘えといたけどな。
お兄ちゃんには突っ込まれたけどな。
私は排斥になったら忌避になる、ということは理解して覚悟の上で離れたけれども、
でも明らかにJWは間違ってることはわかってた訳で、
そうして私がお世話になってることで、両親の良心(よくあるギャグ)が痛んでる事もわかってた訳で、
そうして良心をつつき続ける事で、忌避なんておかしいと思ってくれないかな、という私なりの願いもあったのですが、
今考えると、そのやり方は単に両親の愛を担保にした搾取であり、
MPをただ削りまくっていただけで、無意味だったなぁ、とは思うのです。
相手になにかしてほしいときは、まず自分から与える。黄金律の原則を守るべきでした。
んで、産まれて一週間。
突然、私は救急車で運ばれました。
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