すっかり甘えん坊の抱っこ魔になった娘を抱えて、どうやって家事をすればいいのか途方に暮れています

今日は実親からの忌避の歴史について。
かなり壮絶な忌避の苦しみを味わっておられる方も多い中、ぬるい話で申し訳ないのですが、
このぬるさ〜現在の厳密な忌避に至るまで、相当長老に色々言われたんだろうなぁと思います。
その結果、母親は板挟みで苦しんで、そして鬱病になってしまいました。
わたしにも責任の一端はあると思いますが、組織のブレブレな忌避基準には「ええ加減にせえよ」と言う気持ちです

と言うか、「忌避」って言うようになったのって何か専門用語なんでしょうか?
昔mixiにいた頃は忌避なんて言葉見なかったなーと思って…
JW用語なのかな?
それとも単に私の交友関係が狭かっただけ?笑
第1段階
やめてすぐ〜家を出るまで
この頃は一緒に住んでいるので、
神権的な会話をしなくなった程度で、
あと母親が定期的にブチ切れるくらいで
、

私も仕事三昧でしたがお弁当まで作ってくれてました。
さすがに申し訳ないと思っていたので、
半年で家を出ることにしましたが、
引っ越しにも車出してくれたり、リサイクルショップで家具を揃えるの手伝ってくれたり、
よく娘が放蕩の生活(JW的に)に足を踏み入れるのを黙って見てられたなー、と言うのが振り返って見ての感想です。
第2段階
一人暮らし〜結婚まで
実は一人暮らし、始めて1ヶ月くらいで体調を崩しました。
熱は出るわ身体中かゆいわで、
情けなくも実家コールをして、差し入れとか持ってきてもらう始末。
当時の親の言い分としては、
「病気になったり経済的に困窮してる時は仕方ないから」
と言う建前だったみたいです。
当時はそんなに長老たちから言われてなかった事もあったと思います。
この建前で妊娠中の悪阻とかも全部面倒見てくれてました。なんなら温泉まで一緒に行ってたな…
ただ、なぜか「食事を共にする事もしてはいけない」だけ律儀に守っていて、
一緒に外食に行くことだけはありませんでした。…って、一緒に温泉行っといて、それ意味ある?

つくづくも、甘い親だったし私も甘えてたなーと思います。
正直、この頃は「忌避されている」と言う実感は全くありませんでした。
会衆の友達に会えなくなったと言う気持ちはありましたが、
実はその頃1番仲のよかった友達は一年前ほどに排斥になっていたので…
集会も奉仕も健康状態を理由に休みがちだったし、フェイドアウト気味ではあったからなんでしょうね。
続きます。次回は親がJWである事に最大限配慮しまくった結婚式。