サムネイル

こちらの記事は
東京都北区
【赤羽八幡神社】

のINDEX記事です看板持ち


※記事の日時=投稿日時です
画像や動画の流用は固くお断りします





概要

所在地

〒115-0053

東京都北区赤羽台4丁目1−6


創建

不詳

伝)延暦年中782-806

(平安時代/第50代桓武天皇在位期間)



御祭神

品形和氣命(応神天皇)

帯中津日子命(仲哀天皇)

息長帝比食命(神功皇后)

由緒板の記載

赤羽八幡神社と谷称され、祭神は品形和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇/日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帝比食命(神功皇后/日本書紀によれば仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)です。
江戸時代、この神社は岩淵郷五力村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(「新式蔵風土記稿」)、現在もその地域の総鎮守となっています。

創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中782-806/平安時代)
坂上田村麻呂(758-811/平安初期の式将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的式将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995〜9/平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154〜56/平安時代)源頼政が修造を加え、
応永(1394〜1428/室町時代)
正長(1428-29/室町時代)の頃、地頭であった

太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469/室町時代)
太田道灌が社殿を再建したといいます(「岩淵町郷土誌」)。

これはさておき、ここには太田新六康資(太田道灌の曾称)の、天文20年(1551/室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面から室町時代末期以前からあったことは確実です。


「勝負事の神」赤羽八幡神社

遠く平安時代の桓武天皇の代(782〜806)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に桓武天皇は坂上田村磨を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。

途中、坂上田村磨はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、後に源氏をはじめ武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上田村磨によってこの地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」として、現在では受験生やスポーツ選手等から篤く信仰されている


境内

 第一鳥居


 石段


 第二鳥居


 拝殿・狛犬


 境内社

▶︎大国主神社

縁結びの神大国主神社

【ご参拝の作法】
二礼四拍手一礼でお参り下さい

【神拝詞(となえことは)】
幸魂奇魂守給幸給

さきみたまくしみたままもりたまえ

さきわえたまえ

※この神拝詞を念じることで、大きなご縁が授かります

大国主神社の御祭神は、因幡の白兎神話にも登場する大国主大神です。

その姿は大きな袋をしよって打出の小槌を持った大黒様として広く知られています。

天照大神への国譲りでは、目に見えない「縁」を結ぶ事を司ることとなり、旧暦十月には全国の神々が、大国主大神の許で縁結びの神議をされています。

「縁結びの神」として有名で、単に男女の縁を結ぶだけでなく、あらゆる幸福の縁を結ぶとされています。

また、因幡の白兎神話で大国主大神に助けられた兎は、後に大神とハ上姫との婚姻の縁を取り持ったとされ、かなわぬ縁を叶えるとされています。

▶︎古峯神社

赤羽大火と古峯神社

明治36年6月4日の午後、赤羽に大火が起こりました。汽車の火の粉が線路際の民家の藁葺屋根に飛び移り、折からの強風にあおられて、あっという間に燃え広がり、町役場や火の見糖を焼き、繁華街の本町通りや新築間もない赤羽小学校をも焼き尽くしました。
最終的には線路の東側全てと、現在の赤羽西口駅前付近迄の赤羽の約四分の三を焼失し、四百名を超える犠牲者を出したのでした。
この大火をきっかけに、赤羽の町民の間に火防の神としての信仰の篤い、栃木県の古峯神社にお参りする「講」を作ろうという機運が高まり、毎年六月に大挙して参詣する古峯神社講が始まりました。
それ以来、古峯神社赤羽代参講として百年以上もの間、現在に至るまで規模は小さくなりましたが参詣を続けています。赤羽八幡神社では御本社より古峯大神を勧請し、多くの犠牲者の鎮魂と赤羽の平穏無事をご祈願しています。


 猿田彦庚申塔


アルバム

2025年8月

🔻鳥居・石段・狛犬・拝殿

🔻境内社・境内から見える線路と電車



関連記事

東京都北区INDEX