在位期間
1318年2月26日(文保2年3月29日/31歳)
- 1339年8月15日(延元4年9月18日/52歳)
系譜
父:後宇多天皇(第91代天皇)
母:五辻忠子
(後宇多天皇の後宮)
後宇多天皇の第二皇子
●大覚寺統
●南朝
宮
吉野行宮
略歴
0歳
20歳
1308年(正安3年)
持明院統の花園天皇の即位に伴い
皇太子となる
31歳
1318年2月26日(文保2年3月29日)
花園天皇譲位により践祚
(※践祚/せんそ=位を受け継ぐこと)
1318年4月30日(文保2年3月29日)
後醍醐天皇即位
※即位後3年間は父の御宇多法皇による院政
34歳
1321年(元享元年)
御宇多法皇院政停止
後醍醐天皇親政開始
35歳
1322年(元享2年)
中宮の御産祈祷
(※鎌倉幕府に呪いをかけたという説もあり)
37歳
1324年(正中元年)
正中の変
:後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を企てた嫌疑で
側近が処分される(※天皇は無罪放免)
39歳〜42歳
1326年〜1329年
中宮の御産祈祷
44歳
1331年(元弘元年)
元弘の変
倒幕計画を密告で暴かれ、
京都脱出し、
比叡山や笠置山への籠城を試みたが失敗。
山中に潜伏していたところを発見され、
捕虜となる。
鎌倉幕府は、
京都から逃亡した時点で
後醍醐天皇を廃位し、
光厳天皇を即位。
45歳
1332年(元弘2年)
謀反人として隠岐島に流される
46歳
1333年(元弘3年)
反幕勢力を頼りに隠岐島を脱出し、
山陰(鳥取県)で挙兵。
幕府から追討で派遣された
足利高氏が味方につき、
直後に東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落し、
北条氏滅亡。
1333年6月5日(元弘3年7月17日)
建武の新政開始
●自らの退位と光厳天皇即位を否定
●幕府・摂関を廃止
●両統迭立を廃止し大覚寺統に統一
●実子の護良親王を征夷大将軍とする
●足利高氏に「尊氏」の名を与える
(※後醍醐天皇の譚「尊治」より)
47歳
1334年1月29日(元弘4年3月5日)
建武に改元
48歳
1335年(建武2年)
足利尊氏と対立→建武の乱
49歳
1336年(建武3年)
足利尊氏は九州で態勢を立て直し、
後に北朝となる光厳天皇の院宣を得て
上洛へ
→
後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、
尊氏の和睦に応じて三種の神器を渡す。
→
足利尊氏により
光明天皇擁立
光厳天皇院政のもと建武式目を制定し幕府開設
※京都朝廷(北朝)のスタート
後醍醐天皇は吉野で吉野朝廷(南朝)を開き、
南北朝時代がスタート
52歳
1339年8月15日
義良親王(後村上天皇)に譲位
1339年8月16日
崩御



