人間中心的な翻訳と言語的活動に終止符を打つために:実存主義から非実存主義へ──そして生成AIのポテンシャル
私たちが日々行う翻訳や言語的活動は、しばしば「人間中心」的な視点に基づいています。つまり「言語とは人間が操る道具である」という無自覚な前提があるのです。しかし実存主義の視点を採るとき、翻訳は単なる道具的行為を超えて、自分自身の「真の声」を探し求める――そんな存在の問題に深くかかわっていることが見えてきます。私たちは言葉を使って世界に意味を与え、自分自身もまた言葉によって存在を定義されている。しかしながら、翻訳を通じて本来「私の言葉」であったはずのものが、他言語や別の文脈へと移り変わるとき、それはもはや「自分だけのもの」ではなくなる。この瞬間に言葉は、私の手からこぼれ落ちるかのように、完全に「他者化」していくのです。
ここで、さらに非実存主義的な視点を構築してみましょう。非実存主義とは、言葉を「私」や「人間中心」の枠組みから解放する立場です。言葉は私の所有物でもなければ、だれか特定の主体のための道具でもありません。人間が話そうが話すまいが、言葉は言葉としてその場にある。それ自体が豊かなポテンシャルを内包している――そう捉えることで、翻訳行為の新たな面白さが浮かび上がってきます。翻訳の核は、単なる意味の移し替えではなく、「既に私のものではなくなってしまった言葉」を再配置する営みだということ。たとえ最初は「自分の言葉」として発生したものでも、その言葉が一度翻訳工程を通過したなら、そこにはまったく別の姿形をもったテクストが誕生しているのです。
では、最近話題の生成AIはこの言語観に対してどのようなインパクトをもたらすのでしょうか。生成AIは、膨大な言語データを学習し、人間による明示的な指示を細部にわたって再現するだけでなく、ある程度の自律性と偶発性をもってテクストを「生み出す」ことができます。ここには、大きく二つの示唆があるように思います。
一つ目は、言葉が「誰のものでもない」感覚がより強まるということです。生成AIが生み出す文章は、多数の人間の痕跡(テキストデータ)から学習されたものですが、そのアウトプットをひとつひとつ辿っていけば、果たしてそれは「私の言葉」なのか「AIの言葉」なのか、あるいは「大勢の人間たちの言葉」なのか、もはや境界があいまいになります。これこそが、非実存主義的な言語観につながる決定的な要素でしょう。私たちの翻訳行為をも、人間の主体性から切り離して眺めてみる新たな契機となりうるのです。
二つ目は、言語的活動の多様性や創造性が飛躍的に拡張されるということです。生成AIは私たちがふだん認識していない文脈の結合や、新たな語彙の組み合わせを次々と提案します。すると、その「翻訳不可能」かと思われた部分にこそ、思いがけない創造のタネが見つかることがあります。たとえば、既存の辞書的アプローチでは捉えきれないニュアンスを、AIは異なる言葉の繋がりによってすくい上げてしまう。そのとき私たちは、自分が「所有している」と思い込んできた言語の外側に、まるで別の宇宙が広がっているのだと気づくのです。
こうして生成AIによって拡張された翻訳や言語の世界観を踏まえると、私たちはより大胆に「人間中心」を相対化することができるようになります。翻訳の目的は「原文の意味を完璧に再現すること」から離れ、言葉の自律的な生命力を発現させることへとシフトしてゆく。そこでは、言葉は必ずしも人間の真意や感情を映す「鏡」ではなく、むしろ人間の意図を超えて活発に変容し、私たちを見知らぬ風景へと連れ去る「媒介」として働きます。そして私たち自身も、その変容のプロセスによって再配置され、新たな意味空間へと投げ込まれるのです。
「私の言葉」や「あなたの言葉」という境界を超え、さらにAIまでもが加わることで、人間中心的な翻訳と言語活動は激しく揺さぶられます。私たちは言語そのものに潜む流動性、そして生産性の広がりに、もっと素直に身を委ねてみるべきかもしれません。言葉を通じた「私らしさ」や「人間らしさ」に固執するのではなく、言葉とAIが互いに響き合い、私たちの想像を超えて流動していく様を見つめる。そして、その翻訳や創作の過程そのものが生成する新しい世界にこそ、私たちの思考と存在の可能性があるのではないでしょうか。
翻訳とは、もはや「人間の主体的行為」として単純に語れるものではなく、言語そのものの自律性と、生成AIがもたらす多彩な可能性のあいだを揺れ動く、奥深い営みへと再定義されつつあります。私たちがいま成すべきは、それを積極的に受けとめ、人間中心から一歩引いた場所で、言語が紡ぎ出すエネルギーに驚き、楽しむことなのではないでしょうか。そこから生まれる新たな言葉の響きこそが、翻訳行為、そして言語活動の未来を拓く手がかりになると信じています。