加藤諦三先生の本を読んだことがある。


そこで、考えた。


神経症という言葉が先生の本の中では、使われているが、…


今回、スパイダーマン たちが治療しようとしたヴィランは、心の傷を抱えていた。


世間に対して、悪役となって自由に振る舞うか、大人しく元の世界に戻るか、その二択しか与えられていなかった。


一方で、スパイダーマン の方も、神経症なのである。


善を貫くか、悪に徹するか、その二択しか出来ないのだ。


いや厳密には、そもそも、ピーターは、これまでのホームシリーズでは、ヒーローとしての活躍と、ピーターとしての幸せな生活を、両立していた。


本来、そちらの方が、健全というか、発達段階としては、大人とは言えないだろうか。


ピーターが最後に、ヒーローとして孤独に生きる選択をしたのは、そうせざるを得なかったからであり、それは、別に、孤高のヒーローが正義そのもの、という話ではない気がする。


ただ、絶対的な正義を唯一定義し得るとしたら、裏切られても信じることをやめないこと、でしかないだろう。


尾崎豊の自由への扉に、そんな歌詞があったなあ。


それをヒーロー像の極みのように、この時代においても、マーベルが描いているのは、何だか、時代が変わっても、ヒーロー像は、揺るがないということなのだろうか。


もっと素直にハッピーエンドにしても良いとは思ったのだけど、まさか、ここまで救いのない話になるとはね。


希望とは、自らの中にあるもの、…とはよく言うけれども、その希望のタネを見出すのが、あまりにしんどくないか?


これがヒーローの宿命なら、誰も憧れないだろうな.


…ヒーローに憧れることを諦めさせてくれる、という意味では、強烈な意味を持つ映画かもしれない。


これまでのスパイダーマン シリーズ以上に、序盤が、幸せそうに友達も恋人もいたホームシリーズのピーターだからこそ、この絶望的な展開には、…ね、本当に、救いのなさを感じるね。


悲哀感が、ギャップという意味では、シリーズ最大に感じた。