通常は、関根先生のおっしゃる通りなのですが、その「雑談」というのは、大概の周りにいる。皆さんと共通の話題を話せる生活環境にいるから何気にも話をして同感できるから、話が合うから話せるわけです。

 

 人と違っていたら話が合わないわけです。「もういいよ」という感じです。

 

 人並みに生きれているということは、それは大変に素晴らしいということなんです。

 

 もし、人並みに生活できないとすると、皆とは話が合わないわけなので、お勤めをすると、一番偉い方、社長や支店長、所長などから、ご心配されて「こっちへ来なさい」。

 

 「人と違ってもいいんだよ。努力や根性を入れて人一倍仕事をすれば、私なんかもそうだぞ、手帳が真っ黒になるまで歩いたぞ、そして本を読め。私の手帳を見てみろ。新聞の新刊をこうやって手帳に書いておくんだ。そうやって話題を作るんだよ」。

 

 どこの会社に行っても、すべてこのようです。皆がランチしたり雑談しているときに「お前は」努力だな、いってらっしゃいと、この世に放り投げられる。

 

 僕にとっての「雑談」というものは、僕に問題があるから羨ましいのだろう。

 

 そして、この世というのも実は雑談で打ち解けているところがあって、知らない人同士が仲良くなるのも雑談から人の良さに安心したりしてるわけで、でもまったく希望がないわけでもない。

 

 その「人の良さ」というのは、「雑談」だけしていたのでは、養われない。そこを裏付ける信仰なりなんなり形成するものがなければ「だだの井戸端会議、話が尽きて人の悪口に発展する」

 

 だからせめて、信仰・福音・牧師さんなどからは、世俗的な雑談にあまり期待していない。硬い話ばかりでは大変なので少しは楽しいのですが、心に来る話が聞きたいのです。

 

 つまらない話を聞いている人の表情を見てみるがいい。顔が顔面神経痛のようにひきつって、ヒクヒクしてるから