「岡崎電燈」に関しては研究者のご尽力により、設立の経緯がかなり詳細に判明している。感謝申し上げつつ、僭越ながら本稿において「岡崎電燈」を極簡単にご紹介したい。

 

明治28年夏、前年に電燈が灯った豊橋から岡崎へ来た者が東海道岡崎宿の「丸藤旅館」へ投宿したことから「岡崎電燈」の物語は始まる。宿泊客は旧知の旅館の主人・田中功平に「岡崎にも電燈を点けては如何か」という話をした。田中は電燈開業に大変興味をもったという。ただちに、織物業を営む杉浦銀蔵や味噌醤油屋の近藤重三郎に相談を持ち掛けている。その年の9月には、豊橋電気や熱海電燈の技師を務めた大岡正が岡崎へやって来たことから事業化が一気に進んだ。

明治29年7月、「岡崎電燈合資会社」が設立され、発電所の設計・監督を大岡に嘱託する。同年10月には逓信大臣の許可が下り、額田郡日影村(岡崎市日影町)の郡界川二畳ヶ滝の落差を利用した水力発電所建設に着手。難工事の末、明治30年7月1日に、第一発電所(現・岩津発電所)が完成した。出力は50kW、岡崎中心部まで電圧二千V16kmの線路が敷設された。発電した電気は、郡界川沿いにあったガラ紡の工場や岡崎町八帖など岡崎中心部へ送電された。開業式は、明治30年7月25日に岡崎町の宝来座にて盛大に執り行われた。この開業式では内務大臣で子爵・品川彌二郎の祝辞が披露されているが、この祝辞巻物が現在、名古屋市の「でんきの科学館」に展示されている。そのなかで、「殊に数百年来、有名なる三河木綿の造職に力を入れ…」とあり、政府として殖産興業を期待しているのが分かる。

△絵葉書 岡崎電燈 第三発電所 全景

△中部電力・加茂発電所と巴川
 

さて、上の絵葉書は「岡崎電燈株式会社 第三発電所」であり、現在は中部電力に属す「賀茂発電所」である。岡崎電燈自らが発行した絵葉書は種類が少なく、たいへん貴重なものとなる。この岡崎電燈では旺盛な電力需要に応じるため、「第二発電所」(現・東大見発電所)に続いて、大正3月6月に東加茂郡金沢村(現・豊田市足助地区)の巴川と神越川の合流地点に設けたのが「第三発電所」である。観光地で有名な「香嵐渓」の上流部に当たり、出力は520kWであった。

△中部電力 加茂発電所 入口

△連系鉄塔と発電所建屋
 
 

ちなみに巴川が作り出す渓谷、香嵐渓(こうらんけい)は、紅葉やカタクリの花などが有名で、香積寺の三栄和尚が、江戸時代の寛永11年に植樹したことがはじまりとされ、現在では全国有数の紅葉の名所として約4000本のもみじが彩りを見せ、紅葉の名所として高い人気を誇っている。昭和5年、大阪毎日新聞の本山彦一社長により、香積寺の「香」、巴川をわたる爽涼とした嵐気の「嵐」から“香嵐渓”と名付けられたと云う。

△香嵐渓入口

△香嵐渓を流れ下る巴川

△巴川に掛かる待月橋
△暑い日はカキ氷でも
 

また、足助川をはさんで、かつての宿場を思わせる古い町並みの散策もできる。この「足助の町並み」は、愛知県で初めての国の「重要伝統的建造物群保存地区(通称:重伝建)」に選定された。尾張・三河から信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の重要な中継地にあたり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた商家町。重要な交易物であった塩はここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。

△足助の古い町並み
 

さて、岡崎電燈の話に戻るが、岡崎電燈ではさらなる需要増に対応するため、大正8年には第四発電所(現・足助発電所)、大正15年に第五発電所(現・百月発電所)を完成させるが、いずれも大規模改修により、当時の建屋は残されていない。しかしながら、中部電力の電力史料館には、賀茂発電所の水車・発電機(大正3年製)が電力遺産として保存されている。

△写真 「岡崎電燈 第四発電所」

△現在は、中部電力 足助発電所

 

△写真 「岡崎電燈 挙母変電所」(現・中部電力 西町変電所)

 

 

*無断転載・複製を禁ず