名古屋市内で初めて電気を灯したのは「名古屋電燈株式会社」であった。明治21年10月より名古屋市南長島町で本社(現・でんきの科学館)および電灯中央局(火力発電所)の建設が進められ、明治22年11月3日に第一発電所(発電機25kW×4台)を設置、明治23年1月10日に南桑名町にあった千歳座にて名古屋電燈開業式が執り行われている。 

△広小路通りにある中部電力㈱でんきの科学館 

 

さて、中部電力が昭和62年にまとめた「中部電力史略」の中に、明治34年に営業運転を開始した絵葉書にある名古屋電燈の第三発電所となる「水主町発電所」についての記述があるのでご紹介したい。

■日清戦争(明治27年勃発)後、電灯需要はますます増え、供給区域も拡大していった。しかし、当時の直流方式では低圧供給となり、遠距離送電が困難なうえ200kW以上の大容量機をつくることができないといった問題があったので、交流式高圧送電に切り替えることとなった。

■このため、石炭輸送に便利な堀川沿いの名古屋市水主町に交流式の第三発電所を建設することとし、明治29年11月、建設許可を得た。石炭価格が高騰していたのでしばらく着工を見合わせていたが、明治33年6月着工、同34年7月電圧2,300V、60ヘルツ二相交流式で発電を開始した。最新式のスチームタービンを使用し、ゼネラル・エレクトリック社(GE)製発電機の出力は300kWであった。(中略)

■水主町発電所が竣工すると、下広井の第二発電所は廃止、また第二期工事300kWの増設とともに長島町の第一発電所も休止された。 

△絵葉書 名古屋電燈株式会社 第三発電所
△現在は水主町変電所となる(クリーム色の建物)
 
この第三発電所(水主町発電所)が設置された場所は、名古屋市堀川沿いの水主町(かこまち、中村区名駅南3丁目3番地)であった。
ここは、名古屋港まで運ばれてきた発電用石炭が艀(はしけ)などに乗せ換えられ、堀川を遡って水主町の発電所脇まで運ばれてきた際に、揚炭が容易な場所が選ばれたためであった。下の写真では、揚炭場所の様子がよく見える。 
△名古屋電燈 本社(明治40年頃)
 
「第三発電所」(水主町発電所)は、れんが造りの鉄骨亜鉛葺き建屋で、米国のGE社製交流発電機(300kW)、米国マッキントッシュ・シーモア社製タービン、英国のバブコック・ウィルコックス社製ボイラなどで構成された。その後、明治36年2月には拡張工事が図られ、明治37年6月に600kWに増設されるなどして、最終的には四期に亘って増設され1,600kWの出力を誇った。
明治37年1月には、この第三発電所構内に名古屋電燈が本社機能を移している。絵葉書はその本社移転後の風景を写したもので、明治43年頃の風景である。現在この地は、分社化された中部電力パワーグリッド㈱水主町変電所があり、名古屋市内への変電機能のみが残されている。 
△中部電力パワーグリッド㈱ 水主町変電所
 
△市内を流れる堀川(左手マンション奥が水主町変電所)
 
〔追伸〕「中部産業遺産研究会」様より貴重な情報を頂きました。いつもありがとうございます。以下掲載させていただきます。

■水主町発電所は名古屋電灯が明治34年7月に建設した火力発電所で、当初は第三発電所と呼ばれた。大正6年、熱田火力発電所が完成すると廃止され、跡地には水主町変電所が建設(大正8年12月)された。

■これまで発電所の遺構は何もないと言われてきたが、最近になって堀川の護岸工事が行われた際、発電所時代の排水路跡が残っていることが分かり、名古屋市の河川計画課と中部電力パワーグリッドとの間で協議され、令和3年に保存措置が取られ

■水主町発電所の排水路遺構は、地下鉄大須から550m程西、堀川洲崎橋から100mほど南の堀川右岸にあり、金網のフェンスに案内板(下図、名古屋市河川計画課作成)が設置され、「堀川に残る産業遺産、旧名古屋電灯水主町発電所排水路遺構、1901年(明治34)発電開始。交流・高圧による広域送電を可能にし、名古屋に電灯に灯りを拡げた」と記されている

■遺構の上部に水主町変電所からの送電ケーブルが堀川を横断している。遺構はその直下にあり道路からは見ることが出来ない。

△旧名古屋電燈 水主町発電所 排水路跡 案内看板
 
 

*無断転載・複製を禁ず