明治期に長野県岡谷町と並んで製糸の町として繁栄した須坂町(現・長野県須坂市)では、明治8年には早くも糸師仲間たちが官営・富岡製糸場を視察し共同会社を組織。海外から器械式製糸を導入する。こうした中から、製糸王・越 寿三郎が誕生した。

越は、明治元年生まれで、明治20年に製糸会社「山丸組」を創業。昭和2年には県内最多納税者となった。

△絵葉書 山丸組製糸場 総務部(須坂町)
※絵葉書には、蚕の餌となる桑の葉をデザイン

 

△信濃電気社長 越 寿三郎

 

越 寿三郎は、製糸場を電化するため明治36年に「信濃電気株式会社」を起業するが、その沿革について、「信濃電気 創立二十五周年記念写真帳」に記載されているので、以下にご紹介したい。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

信濃電気株式会社は、明治36年5月、上高井郡須坂町に資本金25万円を以て創立したるものにして、上高井郡仁礼村に米子川を利用せる米子発電所を設け、須坂町および付近の地に電燈電力を供給せり。

△須坂町内の製糸工場

△信濃電気 米子発電所(出力120kw)
 

その後、漸次、供給範囲を拡張するに及び、電力に不足を生じたるにより、明治39年、高澤発電所の新設を見るに至り、なお余剰電力を利用して化学工業事業を兼営し、信越線吉田駅前に吉田工場を新設して、カーバイトの製造を開始せり。

翌明治40年には資本金を50万円に、明治44年には125万円に増加し、さらに上田電燈株式会社の合併を遂行して、145万円となり、大正6年200万円と増資を行えり。

大正8年、資本金を400万円に増加し、杉野澤発電所の新設を見るに及び、長野電燈株式会社、越後電気株式会社、東洋化学工業株式会社の電力需要に応ずると同時に、化学工業事業の拡張を企画し、信越線柏原駅に近く柏原工場を新設してカーバイトの製造を行い、茲に始めて累年発展に発展を重ねたる電燈電力の供給並びに、多年の宿望たる化学工業事業の基礎を確立するに至れり。

大正11年さらに資本金を800万円となし、昭和2年には一躍1,700万円に増資を行えり。同年、高澤第二発電所の完成を告ぐるに至り、余剰電力は之を挙げて、傍系会社・信越窒素肥料株式会社(現在の信越化学工業)直江津工場に送電し、同年11月、当社化学工業事業は之を全部同工場に移すに至れり。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 

絵葉書にある水力発電所は、高澤第二発電所である。明治39年、信濃電気二番目の発電所として、長野県と新潟県の県境を流れる関川に高澤発電所(長野県信濃町、300kW)を建設。さらに余剰電力を利用するため石灰窒素肥料の事業化を目指し、昭和元年、高澤発電所の隣接地に四番目の発電所として「第二高澤発電所」(19,000kW)を建設し、越が自ら起業した信越窒素肥料(後の信越化学工業)直江津工場へ送電した。

△絵葉書 信濃電気 第二高澤発電所 近傍ノ景

△絵葉書 信濃電気 第二高澤発電所内器機

 

さて、現在、長野県須坂市内の春木町南交差点には、「信濃電気発祥の地」の碑が中部電力によって建立されている。

冒頭でも記した通り、信州須坂は明治から昭和初期にかけ、当時我が国の主輸出品であった生糸(絹糸)の一大産地として栄え、現在も市内中心部には当時の古い建物が残されていて、土蔵造りの町並みが往時の繁栄ぶりを今に伝えている。

△「信濃電気発祥の地」碑
△信濃電気 須坂出張所(昭和3年撮影)

△須坂市春木町南交差点
 
この「信濃電気発祥の地」碑が立っている春木町南交差点の奥に写っている建物は「旧小田切邸」である。小田切家は大笹街道と谷街道が交差する町の中心地に居を構え、麹(こうじ)、酒造、油、蚕糸、呉服商などを営む豪商として、幕末まで町年寄りや須坂藩の御用達を勤めていた。製糸業で栄えた須坂の歴史と、当時の人々の暮らしを現代に伝える重要な遺産として「長野県宝」に指定されている。是非お立ち寄りを。
 

*無断転載・複製を禁ず

 

〔追伸〕

令和6年5月17日に開催された国の文化審議会文化財分科会において、須坂市街地に残る蔵の古い街並みが国の「重要伝統的建造物群」の保存地区として指定される見通しとなり、文化財としての価値が認められた。誠にめでたいニュース!!!!