母の最期の雄姿② | 成存の法則(すい臓ガンの場合)

成存の法則(すい臓ガンの場合)

母が膵臓癌になり「余命3ヶ月」と宣告されました。
それでも今も母は成存しています。そしてこれからも・・・


朝4時・・・

父が私を呼ぶ声。 

「いいよ、○○(←私)は起こさないで~」という母の声の元、私は目が覚めました。

両親の部屋へ急いで行ってみると、母が「寒い寒い」と身体を震えさせ、とても体が冷たくなっていました。 呼吸も乱れていて、ぜんそく用のスプレー管を持って来たり、暖房も最強に部屋を暖め、父と必死に母の体を温めました。 暫く続けていると、少し落ち着き、母はスース―眠りに戻っていったので、私はそのまま起床。 心配しながらも一階で仕事をスタートさせました。


朝6時30ぐらいになると、父もいつものようにスーツを着て、会社へ行く準備をしていたので、母の様子は落ち着いたんだろうと思っていました。 朝7時頃、いつものように父の朝食を作ろうとキッチンへ行くと、二階で「ガタッ」という物音が。 最近母の足腰は弱っているので、小さな物音でも、駆けつけます。

すると、母が二階のトイレの中で、苦しんでいました。

「もうだめ・・・痛い・・・」「いつもと違う痛み」と言う母の顔を見ると、脂汗らしきものも出ていたので、救急車を呼ぶことを促しました。


母も承諾したので救急車を呼ぼうとすると、

「サイレンは消して来てって言って」

「ご近所さんに迷惑だから」

って、こんな時でも、そんな事を気にしていた母でした。

救急車が来ると、

「私、外の階段の下まで歩こうか?」

「こっちが頭じゃ運びにくいから、こっち向くか・・・あれ?・・・」

とか・・・

こんな時でも、笑いを誘うような行動をする母。

私の心の中で、「あれ?救急車呼ばなくても良かったかな?」と思ってしまうほど、痛みのアップダウンがありました。

結局、父が救急車に乗り、私と旦那さんは車で病院へ行くねと、母を見送りました。


正直、病院に行けば、母の痛みは取ってもらえると思っていたので、また仕事を片づけ、落ち着いたら病院に行こうぐらい現状を楽観視していた私です。


10時からの仕事のアポもこなし、11時頃旦那さんと病院へ行きました。

母の病室の前からは、

母: 「それじゃ大きすぎる~。 頭使って考えなさいよ。」

父: 「これ以上小さいのは売ってないんだよ。」


と、母が舐めたいアメの大きさでいつものような掛け合いの両親の声が聞こえ、尚一層ホッとした私が居ました。


それから、ノートパソコンを片手に、母の様子を伺いながら仕事もし、時に母が痛む時、体を摩り、また母が眠る・・・と、いつものように対処していました。


途中、「お母さん、救急車呼んだ時を10とすると、今は何段階の痛み?」と聞くと、母はうつらうつら、「あの時は12・・・今はうーん・・・5か6かな・・・」なんて会話をしたりしていました。 父が「10段階には12は無いんだから・・・その中では?」なんて、笑いに包まれる空間もそこにありました。


眠ったり、痛み出したり・・・を繰り返しながら少し落ち着いたかなと思う頃、緩和ケアの先生が再び来て下さり母のお腹のエコーを診だしました。

(※でも実は母の痛みは治まってなかったんですよね・・・)


そして、私を病室の外に呼び、

「もしかしたら、腸のどこかが破けているかもしれないなぁ・・・」

「お母さんは、いつもと違う痛みを訴えてた?」

「あれだけ色々な痛み止めを使っても治まらないとなると・・・」

「ちょっとお父さんとコンフェレンスルームに来れるかな?」


など話されました。


父とコンフェレンスルームに行くと、今起きてるかもしれない状況を説明してくださり、母の苦しみを軽減するには、一度眠った方が良いかもしれないという説明も受け、私と父は、母の苦しみを一秒でも早く取ってあげてくださいとお願いしました。 「でも、睡眠薬を使うからって、ずっと使い続けるわけでは無いし、明日の朝まで眠るかたちになるんじゃないかな・・・」と。



この時は、母と「最期の別れ」を迎えるなんて夢にも思っていない私でした・・・



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