第4話 カーズ・ローエン
1
深い森の中にぽっかりと開けた空間に、バルドたちはいた。
目の前では滝が絶え間なく水を|碧《みどり》の滝壺に注いでいる。
滝壺のほとりに大きな岩棚が張り出しており、その上にヴェン・ウリルが寝そべっている。
ついさきほどまで泳いでいたのだ。
汗やほこりやこびり付いた血をすっかり洗い落とし、今は気持ちよさげに吹く風に裸身をさらしている。
褐色の全身のそこここに傷痕があるが、それはこの男の美しさを少しも損なっていない。
すらりと伸びた足も指も長い。
手もまたしかりである。
驚くほどの瞬発力を秘めた全身の筋肉は、ビロードのようになめらかな表皮によって、凶暴さを見事に隠しきっている。
しなやかで、つややかで、まるで夜のけもののようだ。
燐光に包まれているようにみえるのは、うぶ毛が木々の葉を通り抜けてきた陽光を反射しているからである。
左肘を突いて少しだけ上半身を起こし、右腕は折り曲げて胸の上に遊ばせている。
額にかかる黒髪の、少し左寄りのひと房だけが赤茶色をしていて、風にそよそよ揺れている。
いつの間に|剃《そ》っているのか、あごひげも口ひげもない。
その代わりまゆげはくっきりと長く豊かで、もみあげも品よく垂れている。
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前からみれば短めの髪にみえるが、背中側では長く伸びている。
一本一本の長さが長いわけではない。
生え際がずっと下方に続いているのである。
しかも背骨の真上で妙にうぶ毛が濃くなっているから、それこそ腰のすぐ上まで髪が続いているようにみえる。
水の中で自由に泳ぎ回っているときには、まるで背びれが生えているようだった。
岩陰に隠れて一人水を浴びていたドリアテッサは、ずいぶん念入りに体を洗っていたが、風通しのよい薄着をまとって出てきた。
一糸まとわぬヴェン・ウリルの姿を目にして、驚いたように顔を背けたが、きっと表情を引き締めて何もなかったふうを装った。
照れたら負けだと思ったのじゃろうなあ、とバルドは思った。
木の上で器用に寝ているジュルチャガが、小さな笑い声を上げた。
ドリアテッサは、きつい視線をジュルチャガに送ったが、もちろんこの盗賊は少しもひるまない。
ふん、とひと息荒い息を吐いてからドリアテッサは鎧を持って水辺に戻り、ごしごし洗い始めた。
木の根元で眠るゴドン・ザルコスは、こんなやり取りに気付きもせず、滝の音にも負けじとばかりにいびきを立てている。
季節は秋。
空は澄み、木々は豊かに色づき、水は清らかで、日の光はやわらかだ。
一行は、思い思いにくつろいでいた。
2
そうしてくつろいでいるこの瞬間にも、ヴェン・ウリルには死を招く赤い鴉が取り憑いている。
今のバルドには、それがはっきりと見える。
盗賊たちがアジトにしていた家に、ただ一人ヴェン・ウリルは飛び込んだ。
なるほど、この男の技量なら、野盗ごときを恐れる必要はないといえばない。
だが、どんな武器を持った敵がいるか分からないのである。
どんな備えがあるかも分からないのである。
奥義を究めた武人であっても、雨の中で雨粒をかわしきることはできない。
砂嵐の中で砂粒をかわしきることはできない。
いかなる達人であっても、毒を塗った短剣が体をかすめただけで死ぬことはあり得る。
当たってもよい、とこの希有の剣士は思っているのだ。
今のこの男からは、命の喜びが感じられない。
最初に遭ったときは、そうではなかった。
バルドと剣を交えることを楽しんでいた。
あのときのヴェン・ウリルは、生きることを捨てていなかった。
大赤熊の魔獣との戦いのときも、たしかにこの男は生きていた。
小憎らしいほど落ち着いて魔獣の攻撃をかわし続ける姿は、剣を極めた武人だけがまとう特別の光に満ちていた。
だが、盗賊たちを切り刻んだやり方はひどかった。
あのばらばらにちぎれ飛んだ盗賊たちの手足や首。
この男の技量なら、もっと鮮やかに倒すことができたのに。
どちらが本当のヴェン・ウリルなのかといえば、どちらもがそうなのだろう。
|飄々《ひようひよう》とした態度の裏で絶望を抱えながら、この男は生きてきた。
いったい、どんな人生を歩み、何を見てきたのだろう。
大切な者が死に、けがされ、滅び去って行くのを見続けてきたのだろうか。
これほどの男から命の力を奪い去る経験とは、どんなものなのだろう。
それでもこの男は生きてきた。
妹とやらへの気がかりが、この男を地上につなぎ止めていたのかもしれない。
だとすれば、妹が伴侶を得た今、この男はいよいよ危うい。
おそらくこの男は、生まれてから今日まで、重い荷物をいくつも抱えてきた。
いくつもの約束をしながら生きてきた。
そうした拘束から自分を解放することを、この男は嫌っている。
この男の言い回しを借りれば、天との約束を破ることはできない、と思っている。
破ってしまえば、天の報復が妹の幸せを奪い、今までのすべてを崩すからだ。
この男を制約から解き放つには、どうすればいいのか。
この男は、バルドのことを天意を受けた人だと言った。
本当にそうかも知れない。
この男を死なせたくないという天の|意《こころ》が、この男をバルドに引き合わせたのだ。
だが、どうすればこの男を生かすことができるのか。
どうすれば、この男の心臓に爪を食い込ませている赤い鴉を追い払えるのか。
ここまで思索を進めてきて、バルドは急におかしくなった。
わしはいったい何を考えておる。
どうしたらこの男を救えるか、などと考えておるのか。
何様のつもりか。
誰かの心をどうこうすることなど、わしにはできはせん。
誰かを救ったり変えたりすることなど、そもそもできることではない。
わしにできることがあるとしたら、それは与えることじゃ。
わしが持っておる物でこの男の役に立つ物を与えることだけじゃ。
それをどう使うも使わぬも、この男しだい。
自分の人生は自分で歩くしかないのじゃ。
バルドは、愛馬の皮で作った剣鞘を、とんとん、とたたいた。
それにしても、自分はどうしてこの男のことがこんなに気になるのか。
この偏屈な剣士のどこを、自分はそんなに気に入ったのだろう。
考えてみたが、よく分からなかった。
3
ヴェン・ウリルは、まだ岩棚の上にいた。
もう衣服は着けている。
バルドは、ヴェン・ウリルに近寄り、お前はわしをあるじと決めたのじゃな、と訊いた。
ヴェン・ウリルは、|上半身《うえはんしん》を起こして向き直り、うむ、と答えた。
バルドは続いて、ではわしの言うことに従い、わしに立てた誓いを守るか、と訊いた。
再び、うむ、という返事があった。
さらにバルドは、お前には受け継ぎ伝えねばならぬ家や名や家財や務めがあるか、と訊いた。
ヴェン・ウリルは、いや、ない、と答えた。
バルドは、右手の指を伸ばし、手のひらを下に向けて斜め前方に突き出した。
それは騎士に何事かを宣誓させるときの容儀である。
ヴェン・ウリルは、はっとして姿勢を改め、バルドの前に進み出ると、右膝を地に突け、|頭《こうべ》を垂れた。
その頭に右手を当て、バルド・ローエンは宣言した。
闇と安らぎの神パタラポザの名のもとに、騎士バルド・ローエンが騎士ヴェン・ウリルに問う。
騎士ヴェン・ウリル。
祈誓するか。
「祈誓いたします」
なれば、われバルド・ローエンは、師父としてなんじに告げる。
今このときをもって、なんじの名を取り上げる。
しかして、なんじをわが養子としてローエン家に迎え、家名の継ぎ手となす。
これよりは、カーズ・ローエンと名乗れ。
祈誓せよ。
さすがのヴェン・ウリルも驚いたのか、頭を上げようとしたが、バルドの右手はそれを許さなかった。
バルドの骨張った大きな手が、ヴェン・ウリルの頭をしっかりと押さえ込んでいる。
誓え。
と再びバルドが命ずると、しばらくの逡巡ののち、
「誓います」
と少し震える声で宣誓した。
うむ。
なんじの古き名は、今失われた。
古き名のもとになしたあらゆる誓約も消え去った。
騎士の誓いもまた消えた。
ゆえに、新たに騎士の誓約をせねばならぬ。
バルドは自らの帯剣を腰から抜くと、その平を目の前にひざまずく男の右肩に当てた。
なんじカーズ・ローエンよ。
騎士たらんとする者よ。
なんじはいかなる神のもと、誓いをなさんとするか。
しばらくの沈黙のあと、
「風の神ソーシエラのもとに」
という|答《いら》えがあった。
よきかな。
風と忘却の神、たゆみなき成長の護り手にして恵み深き森の友なるソーシエラよ。
ご照覧あれ。
心技体知を磨き上げしもののふが、騎士たる誓約を今行わんとす。
カーズ・ローエンよ。
なんじは|誰人《たれひと》に忠誠を捧げて騎士たらんとするか。
この問い掛けに対しては、ずいぶん長い沈黙があった。
滝の音。
こずえのざわめき。
小鳥たちの声。
森では何物も時を|急《せ》かすことはない。
バルドが宣誓の導き手でなければ、カーズ・ローエンは迷わずバルドに忠誠を誓っただろう。
しかし、バルドはこの誓いの先達であるから、古きならわしによりそれができない。
また、バルドに妻か子がいればそちらを選ぶこともできたが、あいにくローエン家にはバルドとカーズしかいない。
だからカーズは、真に心を向けられる相手を、みずから選ばねばならない。
おのれの心の奥底に自らの手を差し入れ、そこに潜むものを|掬《すく》い取らねばならない。
|企望《きぼう》を。
生きるしるしとするにふさわしいなにかを。
それはヴェン・ウリルがカーズ・ローエンに生まれ変わるために、どうしても必要なことなのだ。
悩め、悩め。
そしてみずからの言葉をつむぐがよい。
お前が何を大切に思う人間か。
どんなことに価値をみいだす人間か。
お前はそれを神々に宣言するのじゃ。
そうしてこそ、カーズ・ローエンは熱き肉と血潮を持った人間となる。
長い長い逡巡の時を、バルドはただ静かに待った。
やがて宣誓者は、しぼり出すような声で、
「俺の忠誠は、奪われたる者たちに捧げる」
と、答えた。
そしてさらに、これまでのヴェン・ウリルとはまったく違う、抑えきれない激情をほとばしらせた声で続けた。
「ゆえなくして大切なものを奪われた者たちに、
故郷を、家族を、自分自身をはぎ取られてしまった者たちに、
望まぬ生き方を|強《し》いられた者たちに、
俺の心は向けられる。
踏みにじられ、押さえつけられ、ゆがめられた者たちのために、俺は剣を取る。
わが忠誠は、奪われたる者たちに捧ぐ」
とおのが祈誓を|宣《の》り上げた。
バルドはうなずいて、よきかな、と|肯《うべな》ったあと、最後の誓いを求めた。
されば、そが誓約を果たすに、なんじはいかなる徳目をもってなすや。
これに対しては、すぐに、
「無知をもってなす」
という答えがあった。
十三徳目といわれるものの中にも、バルドの知る限りの前例の中にも、無知という徳目はない。
「俺は、自分が明日どうなるか知らぬ。
国が明日どうなるか知らぬ。
今日正しかったことが明日も正しいかどうか知らぬ。
物事の結末を正しく言い当てるすべを持たぬ。
そのように無知である俺は、誰の意見も願いも笑わぬ。
誰かを愚かだと思い、何かを間違いだと思うことをせぬ。
俺は無知であることを唯一の徳として、おのが誓約を果たす」
よきかな。
風神ソーシエラよ。
神々よ。
大いなる命よ。
今ここに新たなる騎士カーズ・ローエンが生まれた。
その誓約を|証《あか》し、祝福せよ。
宣言してから、バルドは、右肩を五度、左肩を七度たたき、剣を鞘に収めた。
カーズを立たせる前に、もう一度右手をカーズの頭に当てて、宣言した。
騎士カーズ・ローエン。
誓約の導き手として、なんじに命ずる。
「承ります」
と祈誓したカーズ・ローエンに、バルドはただひと言をもって命じた。
心のままに生きよ。
そう言い終えてから、カーズを立たせ、両肩に手を置いて、
これでなんじは騎士となった。
と告げた。
いつの間にか、一同が取り巻いて、宣誓の様子を見守っていた。
ゴドン・ザルコスは、うんうんとうなずき、
「騎士カーズ・ローエン。
なんじの前途に幸いあれ!」
と力強い声で祝福した。
ドリアテッサは、|鳶色《とびいろ》の目をきらきら輝かせて、感動を抑えきれない声で、
「カーズ・ローエン殿。
お祝い申し上げる」
と言った。
ジュルチャガの反応は、全然違った。
手を頭の後ろで組んで、こう言ったのである。
「あー。
いいなー。
いいなー。
ねえねえ、俺にもそれやってよー」
「いや。
宣誓するも何も、お前そもそも騎士ではあるまい」
すかさずゴドンが指摘した。
「ちぇっ。
ずーるーいーぞー。
ずーーるーーいーーぞーーーっ。
おいっ、カーズ!」
なぜか強気に呼び捨てだ。
そういえば、今までもヴェン・ウリルにだけは、旦那と呼び掛けたことがない。
「お前、分かってるだろーな。
バルドの旦那の身内になったのは、おいらのほうが早いんだからな。
俺のことは、お兄ちゃんって呼べ!」
一同は、どう反応してよいか分からず、しばらく場に沈黙が流れた。
カーズはひどく年齢の分かりにくい男だが、ジュルチャガより下ということはない。
やがてカーズが、口の端を少しゆるめた。
「あっ、こいつ。
笑ったな!
鼻で笑いやがったなーっ」
ジュルチャガは木の枝を振り回してカーズ・ローエンに襲い掛かった。
ジュルチャガは何度も何度も枝を振り回す。
存外素早い攻撃だ。
「ちょっと待てーーーー!」
カーズは、ひょいひょいとかわし続ける。
その顔には今までのような作り笑顔はない。
ひどく無表情だ。
無表情なのだが、安らぎ楽しんでいる顔だと、バルドには思えた。
まだその背中には赤い鴉がみえるが、その姿は小さくなりかけている。
「お兄ちゃんって、呼べーーー!」
大声が森にこだました。
鳥たちが驚いてばさばさと飛び立ってゆく。
その鳴き声が、あきれ声に聞こえた。
赤や黄や橙の葉が滝壺に落ち、水の中でくるくる踊った。
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10月22日「滝のたもとで」に続く