「今日も遅くなっちゃった…」

スマホの電源を入れ現在の時刻を確認すると、既に日付を跨いだ深夜の1時過ぎだった。

昨夜とほぼ変わらない帰宅時間だ。

また、彼女を裏切る事になってしまった。

いつもは人気の無い真夜中のマンションロビーに少しの恐怖を感じるのだが、今日は彼女のことで頭の中がいっぱいだった。



「今日も遅いの?」

今朝「理佐、ちょっとだけいい?」と私を呼び止めた彼女は、どこか寂しげに私の目を見て言った。

打ち合わせ等で連日夜中に帰宅していた私は、そんな表情を見せた彼女に少しでも安心してほしくて「今日は、早く帰るから」なんて嘘をついてしまった。

「それなら良かった、待ってるから」とどこか弱々しげに微笑んだ彼女の表情が、瞼の裏に焼き付いたようにして忘れられない。

しかし既に日付が変わってしまっているのだ。

部屋で待っているであろう彼女は、きっともう眠ってしまっているのだろう。

申し訳ないと感じながらも、きちんと話せば彼女なら分かってくれる……

と、少々自分勝手な結論を出しつつ、自室の郵便ポストに投函されていたチラシやらを回収してから、再びぼんやりと彼女の事を考えていたらあっという間に部屋の前だった。

チラシの束を右手に持ち替え左手で鍵を開け、そっとドアを開く。



「…た、だいま」

返事は無い、が奥の部屋はまだ明るい。

どうやらリビングの電気はついているようだ。



「友梨奈ー?」

深夜の為、声のトーンを落としつつリビングのドアノブを回すが、返事は無い。



それもそのはず、彼女はテレビもつけっ放しで、窓際に置かれているソファーの上で猫のように丸まって眠っていた。

深夜だというのにガヤガヤと騒がしいテレビの電源を切り彼女の元へ近づくと、午前中に着ていたレッスン着のままだと気づく。

あれからずっと私を待ってくれていたのに、夕方まで延長されたレッスンの疲れで眠ってしまってからそのままなのだろう。

今更起こすのも可哀想だからこのままベッドに連れて行ってあげようか。

その前にひとまず寝顔を見たい、と伸びた前髪をそっとかき分けたその時だった。

「んんー、」

ヒヤリと背筋が冷えるのを感じた。

「ごめん、起こしちゃった?」

眉間にシワを寄せながらも緩慢に首を振る彼女にご機嫌斜めなのだろうか、私は少しだけ身構えた。

「…今何時」

彼女はゴシゴシと目をこすりながら私に尋ねる。

「1時回った頃だよ。…あの、ごめんね。早く帰ろうと思ったんだけど今日も打ち合わせが長引いて、でも明日は早く帰__ 」

「もういいから」

「え?」

吐き捨てるように言葉を放った後、むくりと起き上がりソファーに座りなおす彼女。

「友梨奈、」

私はもう少しきちんと話し合おうと床に膝をついて彼女と同じ目線になり目を合わせようとするが、拒否されプイとそっぽを向かれてしまった。

もしかして、怒ってる……?

それもそのはず、私は彼女との約束をここ最近破りまくっているのだ。

ここは誠意を見せてきちんと謝ろう。そう思い姿勢を正したのだが、彼女はそんな私をちらりと一瞥し、はぁ、と深いため息を吐いた。

そして、「…お風呂入ってくる」と一言言い残し、私の返事も待たずに寝癖のついた後ろ髪をゴシゴシとかき回しながら部屋から出て行ってしまった。



__



「ねぇ鍵開けてよー」

彼女が風呂場に入り身体を洗っている間中、私はガラスドアに張り付くようにしてにひたすら謝り続けているのだが、全く聞く耳すら持ってくれない。

「うるさい」

「ごめんって、本当に悪いことしたと思ってる」

返事は無し。

ただただ身体を流すシャワーの音だけが洗面室内にも響き渡る。



暫くして身体を洗い終わったのか、ピタリと止まったシャワー音の所為で洗面室内がシンと静まり返った。

それから微かにお湯をかき混ぜる音。どうやら彼女はこれから湯船に浸かるようだ。

続いて湯船に浸かるなり彼女の呟いた「…もう」と半ば呆れたような声が私の耳に届き、更に申し訳なくなってくる。

「ごめんって。本当はもっと早く切り上げたかったんだけど今後の課題が山ほどあってどうしても長引いちゃって、」

必死の弁解にも関わらず、彼女からの返事は、無し。





____






それから一体どれほどの時間が経ったのだろうか。

体感時間は信じられないほどに長かった。それでも、絶対にこの場所から動きたくなかった。

理由はただただ謝りたかったから。

ここ数週間の彼女を様子を頭の中に思い浮かべてみた。

彼女は大体いつも先程のようにソファーの上でひとり、小さく丸まって眠り私の帰りを待ってくれている。

しかしその姿はなんだかとても寂しそうで、ひたすらその孤独に耐えているようだった。

そして彼女をそんな感情にさせているのは間違いなく私なのだ。

彼女は一体どれだけの時間、どれほどの孤独に耐えていたのだろうか。

そんなことを考えている間にも重く苦しい時間がゆっくりと過ぎて行く。そんな時だった。


「……そんなこと、聞きたいわけじゃない」 

 「え?」

最初は、聞き間違いかと思った。

だって、あんなにも弱々しくて頼りなさげに震える彼女の声を今初めて聞いたから。

「友梨奈、」


またもや返事は無し。しかし今度はとても嫌な予感がした。

「聞いてる?」

「返事しないなら開けるよ?」

それでも返事をしない彼女に居ても立っても居られなくなった私は手元にあったヘアピンを浴室の鍵穴に刺し込んでガチャガチャと上下左右に動かした。

必死に解除を試みた鍵穴が、ガチャリと開くなり私は勢いよくドアを開き浴室内へと飛び込んだ。


「__友梨奈っ?」



私の目に飛び込んで来たのは、真っ赤な顔でぐったりと湯船の側面に凭れる彼女の姿だった。

真っ赤な頬に触れると信じられない程に熱かった。

「ねえっ、どうしたの?なんでこんなになるまで浸かってるの?!」

私の言葉に弱々しく顔を上げた彼女は、虚な表情を浮かべていた。

どうやら、熱いお湯の所為で完全にのぼせているようだった。

湯船の外に垂らすように投げ出された彼女の両腕は頬の火照りに反してほぼほぼ血が通っておらず、見たこともない程 血の気が引いていて真っ青だった。

「え、こういう時ってどうしたら…とりあえず湯船から出よう?えっと、バスタオルどこ…確か洗面台の上にあった気が、」

頭の中がぐちゃぐちゃになってとりあえず浴室から出ようとした私の腕が、びしょ濡れの彼女によって引き止められる。

ハッとして振り返る。濡れた髪から覗く伏せがちな両目は真っ赤に潤んでいた。

「待って、私こそ、ごめん」

「なんで、なんで……?」

なんで、友梨奈が謝るの?

ずっと彼女をひとりしていたのは間違いなく私なのに。

仕事だったとはいえ、幾度となく彼女との約束を破ってきたのに。

縋るように、必死に私の腕を掴む友梨奈の力の弱々しさに胸がぎゅうと痛んで苦しくなる。

そして彼女は小刻みに震える口を静かに開く。

「ひとりになりたくない」


弱々しげに呟いたその言葉は、ここ最近の彼女の心の内の全てのような気がした。

彼女は、友梨奈は、きっと寂しかったのだ。

毎晩たったひとりで恋人を待ち続け、今日も中々帰って来なかったと孤独を感じながら毎晩ひとりでベッドに入る。

それはたった18の少女には、とんでもなく酷なことに思えた。

「もう、ひとりになんてさせないから。嘘なんて、つかないから」

そう彼女への宣言にも似たような言葉を発した私の言葉に、彼女はゆるゆると顔を上げた。

私を見つめる彼女の目は、なんだかとても温かかった。

そうだ、彼女は私だけにこんなにも綺麗で温かな表情浮かべてくれるのだった。

雑誌関係の打ち合わせが長引きがちな私が真夜中に帰宅して、早朝に個人仕事の多い友梨奈が家を出て行く。

そんな入れ替わりの生活を続けているうちに、当たり前のことを、いつの間に忘れていた。

彼女は温かくて優しげな表情を浮かべたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。

その瞬きさえも、とてつもなく優美で綺麗だと見惚れていた。

が、彼女はなぜか突然そのままこうべを垂れた。

「え?」

そして次の瞬間、ガクリと彼女から完全に身体全体の力が抜けていって、そのまま溶けるように湯船に沈んでいった。

私はその状況を理解するより先に彼女の両脇に手を差し込み、そのまま抱きかかえた。

「ちょっと?!寝ちゃダメだって、起きて!!」

返答も無くピクリとも動かなくなった彼女を湯船の中から救い出し、まずは身体を冷やしてあげなければと無我夢中でバスタオルで包み込んだ彼女と共に浴室から飛び出した。



__



取り敢えず、と私の緩いスウェットに着替えさせた彼女をそっとベッドに横たわらせ首筋と脇と、それから額に氷水に浸したタオルを乗せた。

顔を火照らせながら眠る彼女の横顔をじっと眺める。

しかし湯船に浸かっていた時よりかは幾分か頬の赤みも引いているようで、少しだけども安心してホッと息を吐いた。

「……うぅ」

そんな中、不意に彼女が苦しそうに眉をひそめた。

「友梨奈?!目覚めた?気分は?平気?大丈夫?」

急に浴びさせられた私のマシンガンのような言葉の数々に、彼女は若干驚いた表情を浮かべてふぅ、と息を吐いた。

そして再び目を瞑った彼女のその表情は、私の言葉をゆっくりと丁寧に頭の中で反芻しているようだった。

それから暫くして再び目を開いた彼女は、小刻みに震えている指で私の身体を指差した。

「…服、濡れてる」

彼女なりに考えた結果なのだろうか、この部屋に漂う空気を少しでも軽くしようと試みてくれているのか、大分弱々しいが指差すその表情は、彼女が悪戯する時によく見せる表情だった。

「まずそこ?友梨奈がどんどんお湯に沈んでくから、必死で抱きかかえたんだけど」

彼女に合わせるように少しだけおちゃらけた声を出してみるが、中々上手くいかない。

安心して気が緩んだ所為か、流れ出る涙を拭おうとするが、拭っても拭っても涙は止まることを知らないようだった。

「…ごめんね、さっきは。私が自分勝手だった。理佐だって仕事、忙しいもんね」

「それだけは違う」

「え?」

「私が嘘なんかつかなきゃ良かったの。今は忙しい時期だから、早く帰れそうにないって変な言い訳なんかしないで本当のこと話せば良かったって今気づいた。本当に、ごめん」

それまで目を合わせ真剣な眼差しで聴いてくれていた彼女だったが、真正面から謝られることに耐性がついていないのか、話終わった瞬間彼女の瞳がゆらゆらと不安定に揺れていた。



「あの、水、飲みたい」

彼女は瞳を必死に揺らしながら考えた後、はぐらかす選択肢を取ったようだった。

確かに、許してください。いいよ。のやり取りなんて望んでいなかったから、先程とは違って私の言葉を、目を見て聴いてくれたことが何よりの証拠だったから、彼女の選択肢はとても腑に落ちた。

ベッド脇に準備していた天然水をコップに注ぎ彼女に差し出す。

「友梨奈、」

「ん?」

ジッと彼女を見つめる私の目と、コクコクとコップを傾け水を飲みながらこちらにやられた彼女の視線とがぶつかった。

「もう、あんな思いさせないから」

そう言った途端、なんだか急に彼女が恋しくなってギュウ、と若干強めに抱きしめる。

「ん。」

抱き合った背中越しに、照れているのか彼女の短い相槌が妙にしっくりきた。

私は本当にこの子のことが大好きだ。

そんな幸せな感情から、再び溢れそうになる涙を彼女の背中越しにそっと拭った。




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