「うぅ、寒い」

朝の空気の冷えこみように、思わず手をこすり合わせた。

昨日は確か30度以上あったはずだ。

しかし今日は一枚羽織るものが必要なくらいには肌寒い。

たったの1日ですっかり夏の終わりを感じさせていた。

いつもよりも高めに温度設定されているであろう教室まで急ごうと歩を早めた時だった。

前方に信号待ちをしている少女が視界に入った。

女子にしては珍しい、スラックスを履いている。

私達の学校では動きやすく防寒にもなる、という理由で女子生徒にオプションでスラックスが追加されているのだ。

私は大好きな彼女を驚かそうと、背後から近づきちょいちょい、と肩を叩いた。

「てっちゃんおはよう」

一瞬の間の後、彼女はたった今気づいたかのように微かに肩を震わせ私に微笑み返した。

「ん、おはよう」

長く彼女を知っている私はここである違和感に気づく。

微笑んでいる彼女だが、色白なのも相まってか、頬が白桃色に照っていて焦点があっていない。

どうやらあまり体調が優れないようだ。

「体調大丈夫?最近寒暖差すごかもんね」

それとなく話題に出してみるが……

 「体調?いつも通りだよ。ねるこそ大丈夫?」

ほら、そう来た。

私は彼女ほど自らの体調に疎い人をまだ知らない。



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3時間目が終わり、昼休みに入った。

私たちはいつも気の赴くままの場所で昼食をとっている…のだが。

「てっちゃん…それ大丈夫じゃなかよね」

授業が終わり彼女の様子を伺うと、完全に風邪にやられていた。

ぐったりと机に伏せたまま、うんうん唸っている。

「おーい。今日はもう帰ろ?私が保健室まで連れて行くよ」

「でも今日4限までじゃん、ならいける」

「何がいけるの?もう立てんやろ。今日くらい休みなって、」

その時、何か鋭いものを感じて私は恐る恐る振り向いた。

数人の女子グループがジッとこちらを見つめていた。

実は私、クラスの女子からはあまり好かれていないらしい。

何となく彼女たちの気持ちを汲み取ると、平手に近づくなと言いたいのだろう。

なぜならこの学校が女子校なのもあるせいか、彼女は超がつくほどモテるのだ。

実際に彼女を狙っている女子も何人かいるようだから、私が目の敵にされるのも仕方ないことなのかもしれない。

四方八方から鋭い目線を感じる。

本当に勘弁してほしい。

長濱さん…と鋭い目つきの彼女たちから私の名が聞こえた。

早くこの視線たちから解放されたい。

また悪口を言われているのかな。

痛い、怖い、痛い。

ケラケラとこっちを見て笑う一人の女子と目が合った。

ああ、もう無理だ。

私の意思とは反対に溢れそうになる涙を拭おうと手で顔覆う、が。

「…てっちゃん?」

その手が彼女によってがっしりと掴まれた。

「連れてって…保健室」

私の気持ちに気付いたのだろうか。

「う、うん」

フラフラと覚束ない足取りの彼女に手を引かれながら、私たちは教室を後にした。



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「38.4度かぁ。今日はもう帰った方が良いね」

体温計を片手に養護の先生がふぅ、と溜息を吐いた。

本人はと言うと、漸く自らの体調不良を認めたのか、体温を図り終わった瞬間重力に従うかのように座っていたソファに横になった。

苦しそうに閉じられた瞼とは反対に、力無く開かれた口許。

外でこんなに無防備な彼女を見るのは初めてだった。かなりキツいのだろうか。

ぎゅうと胸が締めつけられる。

「最近、体調崩しちゃう子多いのよね。寒暖差についていけないのかしら…あなた、立てる?」

ブツブツと独りごちながらも、手際よく彼女をベッドに横たえ、冷えピタを貼りそっと毛布をかけた後、先生は私の方に振り向いた。

「長濱さん、平手さんの帰りの支度してきてもらってもいい?」

「あ…はい」

またあの教室に戻るのかと思うと、かなり気分が悪い。

このまま私も帰ってしまおうかな。

そんな事を考えながら保健室の引き戸を開けた。



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入室した途端あたりの音という音がピタリと止まり、静寂が訪れる。

正確には止まったかのような、そんな気がしたのかもしれない。

いくつもの鋭い視線がブスブスと私の背中に突き刺さる。

笑おう。

“ ねるは笑ってたほうが可愛いよ。 ”

いつしか、そう言って優しく頭を撫でてくれた彼女のことで頭の中をいっぱいに満たす。

私は無理矢理口角を上げ、そそくさと彼女の机に移動するなり鞄に荷物を詰めていく。


「ねぇ」

ああ。ある程度覚悟はしていたが、とうとう話しかけられてしまった。

この声の感じ、もしかしたらクラスの中で最も上位のカーストに存在している子なのではないだろうか。

私は極力目線を上げず相槌だけを打つことにした。

「…はい」

「長濱さん、絶対色目使ったでしょ」

「…は?」

「何でそんなに平手につきまとうわけ?」

「どういう…ことですか」

「もっとはっきり言われたい?邪魔なの。消えて。」

「なんで私がそがんこと言われんばならんの…」

「その方言もわざとなんでしょ?もう辞めなよ、猫かぶるの。」


もう限界だった。

私は小さい頃から父の仕事の都合で日本中のあちこちを転々としていた。

そのせいで仲の良い友達もおらず、ただ淡々とした日々を過ごしていた私に手を差し伸べてくれたのがてっちゃんだった。

高校生になった。

一人暮らしを視野に入れてもいい年齢になった私は、両親とよく話し合い東京に残ることにした。

自分の人生を生きたい。

両親にはそう言い続け東京に残ることを了承されたのが、実はというと、彼女と離れたくなかった。

邪険に扱われ続け、自分というものを見失っていた私を救ってくれたのは彼女だから。

彼女のためならなんだって出来る気がしていた。

たとえ自分が壊れてしまおうとも。

彼女もろとも辛い思いをさせるわけには行かないのだ。

そう覚悟して自らの感情を殺そうとしたその時だった。


「そんなわけ、ないでしょ」


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ガラガラと引き戸が開く音がした。

最初、私の頭の何かが崩れ落ちた音かと思うほどに私は混乱していた。

「そんなわけ、ないでしょ」

彼女の凛とした声が、教室内に響き渡る。

風邪の所為で潤んではいるが、なおも相手を射抜くような、見据えるような目に教室内の温度が2、3度低くなったように感じる。

「平手さんっ、」

女子たちの顔色が一瞬にして青くなっていく。

「ねる、帰ろう」

ぜえぜえと肩で息をする彼女に、私は慌てて中断していた帰りの支度を再開した。

「てっちゃん、終わっ……」

「きゃっ」

2人分の帰りの支度を終え振り向いた私と、クラスの女子らの悲鳴はほぼ同じように思えた。

とうとう限界が来てしまったのか、彼女はそのまま後ろに倒れ、電池の切れたロボットのように動かなくなってしまった。

「てっちゃん?!」

思考が止まる。

彼女を失う事が脳内によぎった瞬間、頭の中が真っ白になった。

「…先生、先生呼んでくださいっ、」

壊れ続ける涙腺をそのままに、私は彼女の側へと駆け寄った。




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氷水の入ったボウルの中でタオルをキツく絞り、彼女の額に当てた。

「ん、」

熱く火照った身体に、氷水に浸したタオルは流石に冷たすぎたのか、彼女は辛そうに眉を顰めた。

「起きた?」

「…頭痛い」

「病院行った方がよかね、結構頭強く打っとったけど。応急処置は養護の先生がしてくれた」

「…打ってた?」

「うん、廊下で倒れた時に。結構勢いよくいったからヒヤッとしちゃった。」

「ああ、」

彼女は自らの頭に巻かれた包帯を確かめるように軽く撫でた後、静かに息を吐いた。

「どうやって帰ってきた?」

「先生がタクシーに乗せてくれた。でも車から家までは自分で歩いてたよ」

「覚えてないや」

「そりゃね、寝てたもん。歩いてても寝息たててたよ」

驚くほど足取りがしっかりしているのにも関わらず、その目はしっかりと閉じていた彼女を思い出して、思わず笑みが溢れてしまった。

クスクスと笑う私をちらりと見た後、彼女は申し訳なさそうに俯いた。

「…かっこ悪いよね、ごめん」

「有難う」


彼女に謝られることなんて、何一つ無かった。

彼女は2度も私の心を救ってくれたのだ。

人の目を気にすることなく、間違っていることは間違っていると真っ直ぐに伝えることが出来る彼女は、間違いなく私の恩人だった。

「なにが?」

突然感謝を伝えられ、困惑している彼女の目をジッと見つめる。

「私、やっぱり好き」

彼女の潤んだ目が、揺れる。

「てっちゃんがいなかったら、生きていけない」

彼女は一度目を伏せ、それから顔を上げた。

あの目をしていた。

それは慈悲深い、私の大好きないつものてっちゃんだった。

「ねると出会えて、良かった」

そう言って彼女がぎゅう、と私の手を握った。

握られた手は、やっぱり熱かった。

「…熱上がっとるやなか?一緒に寝よ」

私は彼女の身体をぎゅうぎゅうとベットの端へと押しやった。

「いや、感染るから」

「自然児やけん大丈夫大丈夫」

そう言い聞かせながら丁寧に毛布をかけ直す。

「ふふ、」

弱々しくはあるが、声を出して笑う彼女に再び幸せな気持ちになった。

ふと、タクシーで聞いた、養護の先生の話を思い出す。


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雨が降っていた。

私の心模様を映し出すかのように、どんよりとした空だった。

「大変だったのよ、平手さん」

エンジンのかかる音と共に、先生がそういえば、と話を切り出した。

「何がですか?」

私は不安定に揺れながらも深い眠りにつく彼女の肩をそっと抱き寄せ聞き返した。

「いやぁ、長濱さんが荷物取りに行った後ね。平手さん、半分魘されたようにねるが、ねるが、って言うから。どうしたのって声かけたのに、私のこと無視して保健室飛び出しちゃって…」

「…あんなに取り乱した彼女見たの初めてだったから驚いちゃった」

「そう…なんで、すか」

「大事にしてあげるのよ。こんなに愛されることなんて、この先そうないから。」

雨粒が窓ガラスを打つ音を煩わしそうに見上げながらも、羨ましいわぁと独りごちる先生の頬は緩んでいるように見えた。

「…はい。」

自分が必要とされている。私には、帰る場所がある。

この事がどんなに幸せか、これまでの人生を生きてきた私には涙が出る程嬉しかった。

窓に映る雨粒がきらきらと光り出す。


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「ねえ、起きたらなんか食べよっか」

回想から戻ってきた私は、そう言って彼女の柔らかい髪を撫でる。

「てっちゃん?」

背を向けて横になる彼女から、返事はもう無い。

「…寝ちゃったか」

返事は諦めて夜ご飯の仕込みでもして来ようか。

夕方からまた熱が上がってるみたいだし、明日の朝も食べられるようにお粥を多めに作っておこうかな。

「んぅ」

よいしょ、とベッドから腰を上げたところで彼女が寝返りをうち、無防備な寝顔が露わになった。

話し込んでしまったせいか、先程よりも頬が照っているように見える。

「ゆっくり休んでね」

元気になったら容赦なく好きを伝えよう。

そんなことを心に留めて、私は彼女を起こさないよう、そっとベッドから腰を上げた。