「次はいつになったら目覚めてくれるんだろうねぇ」

春の終わりを告げるように、生暖かな風が無機質な病室内を鮮やかに吹き抜けていく。

どこかで咲き誇っているのだろうか、花の甘い匂いがした。

ベッドに横たわる彼女の、風で乱れた柔らかな前髪をそっと整える。

少女らしい緩やかな輪郭に、まるで白蠟めいた肌の色、愛らしい各パーツ。それぞれがまるで人形のように美しいと感じるのと同時に、あまりの人形らしさに息をしているかが不安になり私は衝動的に彼女の胸に耳を押し当てた。

「……はぁっ、」

温かく、規則正しく上下する胸に私はホッと息を吐く。

それから再び寝顔を眺めているうちに、ちょうどこの時期だっただろうか。彼女と出会った昨年の春の終わりを思い出していた。



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「__ということは、___で、」

「___♪、」

先生の声を遮るように、五限の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

「じゃあ、今日はここまで」

予鈴を聞き教師が授業の終わりを告げるのと同時に勢いよく黒板の文字を消した所為で、チョークの粉が教室内に舞い散り生徒の視界を曇らせる。

粉に咽せたように、そこら中からケホケホと咳き込む音が聞こえる。

「起立、気をつけ、礼」

「ありがとうございましたぁ」

そんな生徒たちの気の抜けた挨拶を余所に、私は斜め前の席に座る少女から目を離せないままでいた。


__平手友梨奈。彼女のことは身体が弱く、よく学校を休む子だと曖昧に把握していた。


もうじき春も終わり夏に差し替えるというのに特に人見知りなどはしない私が、なぜか未だに彼女とだけは言葉を交わせないでいた。


緊張するのだ。神々しいほど整った美しい容姿のせいでもあるが、それ以上に時折見せるどこか遠くを見つめるような、陰った表情。それは酷く脆く、触れたら壊れてしまいそうだと思った。

そして私が彼女を目で追うようになってから、もう一つだけ分かったことがある。彼女は大変真面目な性格なのだ。

授業中は居眠りや内職などをする事もなく、常に黙々と板書を取っているような至って真面目な生徒だった。

が、今日の彼女は何かが違った。

朝一の授業から終始フラフラと頭を揺らし、うつらうつらと居眠りをしているのだ。

お昼時間の時だって、複数の友達とのご飯を断り机の上に突っ伏して独りすやすやと眠りについていた。

具合でも、悪いのだろうか。

初めて見る彼女の姿に戸惑いが隠せず、とても不安だった。

どうしてあげるべきなのだろうか。しかし一度も話したことのない私なんかがしてあげることなんてあるのだろうか…と考えれば考える程グルグルと堂々巡りが止まらない。



「………さ、……りさ!」

バシッと左肩を叩かれ私は我に返る。

「あ、聞いてなかった。なに?」

「ねぇ理佐、次の授業サボらない?疲れちゃったぁ」

クラスで一番仲の良い志田愛佳が、私の席に来るなり机に倒れ込んだ。

「いや、来週期末だしそういう訳にもいかないよ」

私は例の彼女から目を離さず、愛佳の話し相手を続ける。

「そんなこと言わずにさぁ、息抜きも大事だよ」

__彼女が、唐突に立ち上がる。

「あ。」

「なに、どしたの?」

「いや…」

気にかけていた彼女は、とうとう教室から出て行ってしまった。

覚束なくフラフラとした足取りにどうしようもない不安感に襲われた。

「どうしたの?理佐」

自分の話を流し聞きされていた事に気づいたのか、愛佳が心配そうに私の顔を見やる。

「ん、ちょっと出てくる」

「え?ちょっと、理佐…!」

アタフタと慌てる愛佳に申し訳ないとは思いながらも、私は慌てて教室を後にした。




__




彼女の後をついて行くと、そこは屋上だった。

柵に身を任せ凭れるようにして、今にも倒れてしまいそうな程具合の悪そうな様子に驚いて、私は駆け寄り彼女の肩に手をかけた。

「どうしたの?」

「へ…?」

彼女にしては間の抜けた、珍しい声だと思った。

私の声で振り向き伏し目がちだった目をあげた彼女だったが、互いに合わさった視線、その焦点はまだ微妙に定まっていなかった。

「なんか具合悪そうだったから、気になって」

「…近づかないほうがいいよ、めんどいから」

「え?」

そう訊き返す私をちらりと一瞥した彼女の表情は、苦しげに歪んでいた。

その表情に、胸がギュウと締め付けられる。

彼女に、何か言ってあげなきゃ…

彼女を私と繋ぎ止めておく為の、気の利いた返事が中々思いつかずに、私はただただ小刻みに震える彼女の肩を赤子をあやすように撫で続ける。

必死に呼吸を整えていた彼女だったが、遂に限界が来てしまったのか、不安定に身体の軸がぶれて膝を折りその場に崩れ落ちた。

アルミ製の柵がガシャンッ、と大きな音を立てる。

「ねぇ平手さん、大丈夫なの?やっぱり体調悪い?」

そう彼女の横顔を覗き込む私に、彼女は心配になる程か細い声で話し始めた。

「今すんごい、眠いんだ、寝たら、いつ目が覚め、わかんない、……だから、もう行って」

どういう…ことだろうか。

言葉が途切れ途切れで何を言っているのかよく分からなかった。

だがどうしても放って置けない。その気持ちだけが膨らんでいく。

「そういう訳にもいかないでしょ」

私は柵を背に凭れるように座る彼女の隣に腰掛けそっと顔色を見る。

「…受けとめて、くれるの?」

そして返事を返すように、既に半分目を閉じ微睡むようにして舟を漕ぐ彼女の頭を優しく撫でた。

「いいよ」

私の言葉を聞いたか聞かずかその狭間で、彼女はガクリと頭を垂れ私の肩に頭を預けた。

彼女が規則正しい寝息をたて始めてから暫くその端正な寝顔を眺めていたのだが、予鈴も聞こえ流石にまずいと感じた私は彼女を抱き運ぶことにした。

「よいしょっと、」

彼女の膝の下と首の下にそれぞれ腕を差し込むようにして抱き上げ、保健室へと向かう。

私が歩を進める毎にゆらゆらと揺れる、完全に弛緩して伸びきった真っ白な首の筋がとても綺麗だと思った。

何故、彼女は今日初めて言葉を交わした私にここまで自らを委ねてくれたのだろうか。

全てを私に委ねてくれたどうしようもなく無防備な彼女に、驚くほどの愛しさがこみ上げてきてしょうがなかった。




__


彼女が目覚めたのは次の日の朝だった。

あの後保健室へと運び込んだのだが、事情を知る擁護の先生によって呼ばれた救急車で彼女はかかりつけの病院に搬送された。

私はベッドとサイドテーブルのみの真っ白で無機質な病室のベッドに横たわる彼女の傍らに一晩居続けた。

そして次の朝、眠気に耐えきれずベッドに突っ伏し軽い眠りについていた私は彼女によって叩き起こされ飛び起きた。

突然のことに小さな悲鳴をあげ慌てる私に驚いたのか、彼女はバツの悪そうに微笑んだ後、淡々と自らの事について語り始めた。

__眠り姫病。

彼女を悩ます不思議な名前の病名だった。

そしてこれが私と彼女との出会いである。