和央ようかは雪組時代に二番手時代からトップにかけての一路真輝の役を新人公演で数多く演じて雪組の御曹司として順調に路線に乗り、轟悠トップの時の二番手になっていた。そして新設宙組トップの姿月あさとに次ぐ二番手として横滑りし、姿月の退団によって次のトップに昇格した。大劇場披露は2000年(H12年)「望郷は海を越えて/ミレニアム・チャレンジャー!」で、相手役としてコンビを組んだ花總まりにとっては、一路真輝、高嶺ふぶき、轟悠、姿月あさとに次ぐ5人目のトップとなったが、長身の和央と花總は舞台映えのするコンビとして評判を呼ぶこととなった。

 

 しかしトップ就任直後に“新専科”騒動により二番手湖月わたると三番手樹里咲穂が専科へ移動となり、その後しばらくは二番手役に専科生が当たり、三番手格の役処に実質二番手の水夏希が入る体制となった。水は当初月組に配属となったがその後花組へ移動し、2000年ベルリン公演参加後に宙組へ組替えとなっていた。上演作品についてはトップ披露となった2000年の全国ツアー「うたかたの恋」や2001年(H13年)「ベルサイユのばら2001」はあったものの、基本的にはオリジナルの新作が続いた。2001年に「カステル・ミラージュ/ダンシング・スピリット」を観劇する機会があったのだが、上演中の舞台は確かに華やかなものだったけれど、正直に言って終わってみれば何だかあまり記憶に残るものがないような印象だった。

 

 2004年(H16年)「ファントム」の上演が決まり、時期的に見てもこれで花總と同時退団かと思ったがまったくその気配無し。この公演では90周年二番手シャッフル企画により、安蘭けいが星組から特出。結局2005年に水は雪組へ組替えとなり、2003年に月組から移動して来ていた大和悠河が二番手として浮上してきた。しかしながら2000年の新専科騒ぎ以降2004年の90周年記念二番手シャッフルもあって、この頃の宝塚歌劇全体が常に公演キャスティングが安定せず流動的な印象だった。

 

 特に宙組については和央・花總コンビのみが突出してしまい、個人的には宙組全体としてのカラーが具体化しないまま時が流れていったように感じていた。2000年の新専科騒動で各組の二・三番手がごっそり抜けた後、他の組は残った路線スターや当時の若手エースの多くがその後各組でトップに就任していた。残った中堅層がかなり薄い感じになった星組でさえも、当時新人公演に主演していた真飛聖が最終的に花組トップとなった。一方で選り抜きの生徒を集めて発足したはずの宙組については、残留中堅層からトップが出ることはなかった。確かにトップコンビの人気は非常に高く長身の男役が揃って一見人材豊かに見えたのだが、それに甘んじてしまい人材育成が疎かになってしまったのではと穿った見方すらできてしまいそう。

 

 結局2006年(H18年)「NEVER SAY GOODBYE」で和央と花總のコンビ同時退団となったが、和央は退団発表後の2005年(H17年)ドラマシティ公演「W-WING」上演中の事故により重傷を負い、退団公演出演が危ぶまれたこともあったが何とか退団公演の開幕に漕ぎつけた。和央のトップ在位は約7年、花總に至っては12年間という記録を打ち立てての退団となったが、この7年の間に新人公演の主役はほぼ公演ごとに変わり、結局宙組の次世代を担う“御曹司”と言えるような若手エースが育たなかったことにも違和感が残る。一時は悠未ひろが引っかかりかけたようにも見えたが伸びきれず、「NEVER」で新公に初主演した早霧せいなも結局雪組でトップに就任した。広く多くの人に機会を与えていたという事かもしれないが、それにしてもである。最近のことになるが新公で4回主演を務めて初の宙組生え抜きトップが期待された愛月ひかるも専科から星組へ移動し先頃退団。宙組発足から20年が過ぎた今、娘役では星風まどかが初めて生え抜きで娘役トップとなったが花組へ移動し、生え抜きの男役トップは未だ生まれていない。

 

 退団後は花總が和央のマネージメント会社の社長に就任していたが、結局和央は「NEVER」で出会った作曲家フランク・ワイルドホーンとご結婚されて見事にトロフィーワイフとして収まった。花總も舞台に戻って日本を代表する女王様女優として活躍し、まあ取りあえずは双方めでたしめでたしということで宜しいのではないでしょうか。