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自尊心と謙遜と服従と

日本人は自尊心の強い民族だとよく言われますね。
人から手助けしてもらうことを良しとしない、これは武家社会の名残だという人さえいます。

老いてもできるだけ子供の世話にはなりたくない。
介護が必要となってもなるべく人の手を借りたくない。

自尊心というより気が引けるというのが本当のところかもしれません。


ところで、物事が上手く行かない、何をやっても上手く行かないと嘆く人がいます。
何かを継続してやっていれば、それが正しいやり方であれば、
そのうち道が開けるという言葉は良くあることでしょう。

それを阻むものがあるとしたら?
家庭環境のせいでしょうか?
周りの環境のせいでしょうか、
隣のアイツのせいでしょうか?
それともこの世界不況のせいでしょうか?



自分の才能がなくて上手く行かなかったんだという人は
あまりいないというか、
もともとその道を続けているのは自分に才能があるからだと
信じているからだと思います。



自分の才能を信じることはいいことだと思いますが、
それが開けないのは果たして周囲のせいなんですかね?


こんな経験はないでしょうか?

自分が教わった師匠なり影響を受けた人がいる人がいると思います。

そのような人から
「僕のことを慕ってくれたのはすごく嬉しい、だから君の作品を是非紹介したいんだ」
といわれたことがある人がいるかもしれません。

しかし、それではなんだかその人の七光りだし、なんというか
その人の傘の下に入るということに抵抗を感じるということですね。

つまり自尊心からその人の作ろうとする道に抵抗感を感じるというものです。

あるいは、「僕にはあなたに紹介されるだけの器があるとは思いません、ありがたいですがお断りします」
といった経験がある人もあるかもしれません。


確かに自尊心を持って自立したい、自分を過信せずこれからもまい進していきたいと思う気持ち、
これはどのような道を歩むにせよ、非常に素晴らしい心構えであることは間違いないです。

でもちょっと待ってください。

世の中にはある一つのことをやっていればチャンスがめぐってくるって
よく言いますよね。

そのあなたの尊敬する人が是非その人の人生の名簿録に名簿録に名前を刻みたいと
言っているんですよ。

このことを軽く見すぎていませんか?

人の傘の下に入りたくない。
自分自身の力で歩んでみたい。

気持ちは分かります。


もちろん、そのお世話になった尊敬すべき方の気持ちも
残念な気持ちでいっぱいになるのは間違いないのですが、


それは天からもらったあなた自身への恵みに従わないという
ことでもあるのです。


キリスト者なら聞いたことあると思いますが、
洗礼者ヨハネの下にキリストが来て
「私に洗礼を授けてください」と言われたんですね。

その時ヨハネは
「何で私のような罪深い人間があなたのような尊い方に洗礼を授けなくては
いけないんでしょうか?」と答えるところがあります。

たしかにヨハネがこういいたくなる気持ちは分かります。

しかし、このように抵抗をする言動も実は不服従の罪なのですよ。

神からの言葉、聖書から発せられる言霊は聖霊で全くただしいもので
キリスト者が全面的に服従を要求されるものなのです。


さっきの尊敬者からの紹介の例にもどります。


もしあなたが今ある道で大成したいと本気で考えるのなら
今目の前で開かれようとする道に背いてはいけません。

結局自分ひとりでできることなんて高が知れています。

自分のスキルを使って小さな事務所が作れればいいやと
いう意見もあるでしょう。

結局は自分のスキルを自己満足で終わらせる
そういったことと変わりないのです。

あなたが今ある才能は神自身が授けたものです。

神様が望むのは2タラントのものを4タラントに
5タラントのものを10タラントにすることなのです。

キリスト者でない人は自己本位的にしか考えないでしょうし
全く持って無意味になってしまうのですが、


今もし1タラントがあるなら
土に埋めずに神へのささげものとして大いなる恵みを
受けようじゃないですか!



キリスト者が信仰に歩む過程

ほぼ半年以上ぶりの更新となり、ご無沙汰しております。

私生活が何かと忙しいので、趣味的なネットの閲覧はやっている暇がないという
状態なので 汗

さて、今はゴールデンウィーク真っ最中。
ヒマというわけではないんですが、ちょっと覚書として今回は書きたいことが出てきたので
久々に書かせていただきます。

3月くらいだったか、前任の牧師が辞任して代務牧師の時期だったんですが、
そのとき、うちの姉妹教会ってところの主任牧師が久しぶりに説教を担当されました。


女性の牧師なんですが、
まだ40台チョいくらいで結構きれいな先生ですよ(≡^∇^≡)


その牧師が担当でうちの教会で説教した時にした話なんですが、
「キリスト者の信仰の歩みは3段階ある。一つは信仰のを知るとき、それから
信仰に覚醒する時、それから神と対話する時」とか、確かこんな様な内容でした。

その牧師が自分の教会でその話をした時、ある信徒が
「いや、信仰にはもう一つ段階がある。それは神への賛美だ」といったそうで、
牧師は大変感動したと語っていました。


確かに、表面上は立派な話だな~と思います。

でも、その第4の段階に本当の意味で踏み込めた信徒って
いったいどれくらいいるの?
ましてやそれを語った当の本人はそこに到達してるのか?と
ちょっと疑問を持ってしまいました。


そんな中、夜中にごちゃごちゃの家の整理をしていたら
前任牧師の9月の最後の説教を掲載している月報を発見し、
「あ!」っと思ったんですよ。


私は最近2回の子育てルームで説教を聞いていて、
聞き取りづらかったり子供をしかりつけていたりして
説教をちゃんと聞き取れないことが多いので、
説教の原稿を掲載している月報を改めて見返したりしています。

その月報の、前任牧師の説教の文章中には
「信仰談義をするのは構わないが、はたしてその信仰の言葉にあなたはちゃんと従っているか?
談義をする前にわれを省みよ」
ということが書かれていました。


私が言いたかったことはまさにこれだったのです。

信徒との談義に感嘆してる場合じゃないでしょ!って
思いました。


前任牧師が去ったことで、うちの教会でも
運営の中心となっていた信徒の何人かが
去ってしまいました。


私も前任牧師の辞任は、辞任後改めて空虚感に襲われ、
かなりつらかったです。

でもそこで負けちゃだめだなと。

4月から新しい主任牧師が来てくれました。

確かに、前任牧師のパンチと比べると物足りないものを感じずには
いられないんですが、
それでも今の牧師をたて、教会を立てる枝の一つになって行きたいと
本気で思っています。


以上おわり♪m(u_u)m



盲目的に信じる強さ

最近振り込め詐欺の手口が巧妙化しているのが社会問題になってきている昨今。
疑っていたつもりでもまんまと乗せられて騙し取られるというケースが多いようです。

人の心配事に付け入り、人の心理に巧妙に入り込む手口はまさにプロですが、
許せないですね~!


そんなわけで、最近世の中人が信じられなくなってきている感じがしています。


先日プロセスより結果が大事 ということを書きましたが、
結果を出すためには当然努力が必要なわけです。


私は家事と育児の息抜き、というか唯一の趣味でアフィリエイトという
ネットビジネスをやっているんですが。
その中で最近面白い事を発見したんですね。


実はいくつか商材アフィリエイト系のメルマガを
購読させてもらっているんですが、
その中で私より10も若い女の子(といっても二人の子持ちです)で
アフィリエイトで月50万くらい稼いでいる子のメルマガを購読しています。


彼女は情報商材アフィリエイトで稼ぎたい人の
アドバイスをしたり、自分で有料の塾を運営したりと
なかなかの敏腕です。


その彼女が自分で運営する塾の塾生を見て
稼げる人と稼げない人の大きな違いがあると
いってました。


それはいたって単純。

「自分が白ということに対して、白だと信じて実践する人」
だということ。



情報商材というのはさまざまな悩みを解決するためのノウハウを詰め込んだ
マニュアルのことなのですが、
その購入者さんに対してアドバイスをするとき、
時にはそのマニュアルのノウハウと全然違ったことを
言うときがあります。


実は私も彼女のアドバイスをメールで何度かもらっているんですが、
時々マニュアルのノウハウと違うことを言われて
戸惑った経験がありました。


それがきっかけでちょっと不振になって
音信不通にしたこともあったんです。


でも、それって間違いだったんです。


マニュアルが黒だということに対して
彼女が白だという。


そのとき、マニュアルでなくて彼女の白だという方に
「この人はマニュアルと違うことを言ってるけど、彼女が言うなら
間違いない!」と思って実践する人と。


そうではなくて
「マニュアルが黒だと言ってんのに何で白なの?理解できない。
こんなアドバイスは聞けないよ」とアドバイスを無視する人。


成功するのは前者の方なんですね。


「え~?しんじられない~!」って
思った方も多いでしょう。
実際このことに反発を感じている方も
いらっしゃると思います。


一見後者の方が物事を考えていて
前者はマニュアルを全然見てないんかい?って
言う反応のように見えますね。


これを理屈で考える人っていうのは
悪いけど成功できないタイプです。


こういうこと、自分にも覚えはないでしょうか?


「○○さん、自分にアドバイスくれたけど、
とんちんかんなこといって筋が通ってないんだよね~。」
「あの人のアドバイスはおかしいから聞けないよ~」

こういう人を自立心があって自分が確立してるなんて
あおられているけれど、
とんでもない勘違いです。


何か仕事を覚えようとしたり、技術を学ぼうとしたとき、
教える人間のことを盲目的に信じようとしたことが
一度でもあったでしょうか?


疑うことが賢いだなんていうのは
とんでもない大間違いです。


学んでいる側なのに
よく知りもしないのに、なに評論家ぶってんですか?
あなたは師匠より偉いんでしょうか?


教える相手の氏素性とか前科者だとか
素行が悪いだとか、そんなことはどうでもいいんです。


どんな悪漢があなたの上司なりアドバイサーでも
あなた自身が能力を身に着けようとすることには
何の問題もないはずです。


今自分は教わろうとしている人からなにを得たいんでしょうか?


育ちがいい人と仲良しこよしで自己満足に戯れたいだけなんでしょうか?
それとも、教わろうとしてる人から技術を盗んで自分を磨きたいんでしょうか?


人は教わろうとするとき、どうも本質からずれている人が
多いような気がしています。


もっともそのずれさえに気づかない人も
多いんですけどね。


仕事がうまくいかない、つまらない、
なにをやってもうまくいかない。


その原因になっているのは
あなた自身ということはありませんか?


自分自身をちょっと振り返って
見て下さい。

人生はプロセスよりも結果が大事ということ

カテゴリに「神への応答」なんて小難しいものをつけてみました。

前回の日記 で私たちキリスト者は「祈り」を大切にして、
その祈りとは決して独り言を言っているのではないというようなことを
記述いたしました。

つまりキリスト者にとっての祈りって双方向のやりとりなんですね。

キリスト者(クリスチャンというとなんか差別用語っぽく聞こえるため、
当面はキリスト者という言い方をしようと思います)は

「週の初めに教会に集められ、説教を通して神からの言葉をきき、
主日ごとに新しくされる」といいます。

ちょっとわかりづらいと思うので
もう少し噛み砕くと、
「日曜日という一週間のはじめに神様から呼び出されて、牧師先生などの説教を通して
神様の言葉を聞いてそれまでの古い自分を捨てて、新しく生まれ変わる」んです。

まあ、これもちょっと深いのですが、その話はまた次回にしたいと思います。あせる


その説教に対して自分がどう感じ取ったかというのが
信仰への応答、つまりは神への応答ということになります。


う~ん、なるべく平易に書こうと思っているけど
なかなか難しいな~しょぼん


さて、今回のタイトルになっていることについて
いよいよお話したいと思います。


私たちの人生において、プロセスと結果、
大事なのはどちらでしょうか?


よく「結果よりプロセスが大事だ」と
言う言葉を耳にしますね?


「結果は駄目だったけど、一生懸命やった。
だから立派だ」ということです。

子供のうちはそれでもいいと思うんです。
しかし、大人になったら
もうそれは卒業しようよ」って
言いたいんですね。

ちょっと聖書をかじったことがある人なら
タラントのたとえ話というのを聞いたことがあると思います。

ぶっちゃけていうと
「ご主人様が僕に5タラント、2タラント、1タラントのお金を預け、
主人が不在の間に5タラントと2タラントの人は商売をしてそれぞれ倍に増やしたて
ご主人様にほめれた。しかし、1タラントの人は何もしないで土に埋めていた。それで
ご主人様の怒りを買って牢屋に入れられた」
というような話です。


まあ、ちょっと礼拝の説教で聞いたことがある人なら
「タラントというのはタレント、つまり才能のことで、それを生きている間に
生かしましょう」といった内容でよく語られると思います。

で、ここでよく誤解されるのは
「自分の持っている才能を生かしていこう」で
止まっちゃうということですね~。

これで私たちなんかは
「で、生かすのはいいんだけど、結果はどうなったの?」
ツッコミたくなるんです。

で、答えが「いや、それがなかなかねぇ・・」となると

「なに~!?結果が出てないだとぉ~!それじゃあ、お前は
1タラントの奴みたいに牢屋にぶち込まれてしまへ~!」

ってなるんです。

あのねえ、生かすって言うのは
結果出さなきゃ意味ないのよ~?

キリスト者って案外、厳しいんですよ。

礼拝に毎週出てるとかそういうことでなくてね。

毎週礼拝に出るのは、
自分が本質的なところから置いてきぼりを食らっちゃうから
それで焦って置いてかれないようにするために
礼拝で新しい自分を取り込まなくてはいけないからなんです。


ああ~、こういうことを知らない一般人って
正直心配汗

まあ、あんまり言うと「このブログは宗教勧誘をしてます」って
ペナルティ取られちゃいそうだから気をつけなきゃいけないんだけど。

自分のタラントを生かすために
あらゆる努力をして、なんとしても結果を出す。

それがタラントを生かす。
それがあの聖書のたとえ話の本質なんです。


みなさん、結果出してます?

親のせい、友達のせい、お金のせい、周りのせいに
してませんか?

仲良しこよしのしがらみさえも
時には大きな足手まといになってしまうことだって
あるんです。

絶縁しろとは言わないけど、
たまには上手に逃げることも大事。

目的達成のためにもね。

聖書でも「はとのように素直に、蛇のように賢くあれ」って
いってますから。

鳩の素直さも大事だけど、
蛇の賢さも必要ですよ~にひひ


あなたが中心とするものは何ですか?

8月に出産した娘がようやく2ヶ月になったので、
今週から礼拝の方も通常復帰することにしました。

今までの主任担任牧師が9月いっぱいで辞めてしまい、
後任が決まるまでの間、臨時の牧師と役員が説教を勤めます。

今日はH役員による説教でしたが、
久々の説教で気がつかされることが多かったです。


キリスト者、一般的にはクリスチャンという言い方を
されるのですが、
なんだかクリスチャンというとえらくまじめなイメージが
付きまとってしまいますよね。


それがキリスト者を名乗るとき、なんか敷居が高いイメージを
もたれてしまっているのかもしれません。


今日の説教で印象に残ったのは、
「あなたがより頼むべきものは何か?」ということ


普通の人なら
「自分」って答えますよね。

でも、キリスト者にとっては、そうではないんです。


私たち(とあえてキリスト者をそういわせていただきます)は
自分に頼むのでなく、神により頼む存在なのです。


またまたこういうとなにやら難しいと
思われてしまいそうですが・・・汗


何か、決断を迫られることがあると、
普通の人なら最終的には自分で判断を
していくわけですよね?


特に選択肢が対峙するものの場合、
AにつくかBにつくか。。。


その場合、自分で判断をしていくのなら、
自分の利益がおそらく判断材料になってくると思います。


利益といっても
お金が入るとかそういうのもそうですが。

「Aに判断した方が、あとあと自分が咎められないだろう」とか
「Aの方がまわりの気分を害さないだろう」とか

こういったことも自分の利益優先といえると思います。

用はいかに自分にとばっちりを受けないで済むか。


これがキリスト者だと、ちょっと違うんですよね。

私たちというのは「祈る」という行為をします。

祈るというのはいわゆる皆さんがイメージする
願掛けとそれほど変わりません。

でも、願掛けが一方的な投げかけであるのに対して
祈りは神と双方向で対話するんです。

どういって祈るかというと
「私は○○したいけど、神様のご意思にお任せします」と
祈ります。

すると、聖書の神についてちゃんと学んでいる人は
「神の言葉」というのが聞き取れてくるんです。


今神様がどうすべきか、聞こえてくるというか。

幻聴とか超常現象のようなものとは
違うんですね。


正しく祈ると神の側から答えが発せられてくるんです。


私は最近、毎日のことに追われて
そういった神の言葉を聞き取ることを忘れてる気がしました。


今の自分の状況において、神はなんと
言っておられるか。

それを聞き取って自分は礼拝ごとに
「新しくされていく」のです。

この新しくされることが
教会での恵みなんですよね。


教会って何か宗教学的知識が必要とか
まじめでないといけないってイメージを
なんかもたれてますが、

そこは本質じゃないんですよ。

その辺を歩いている人がある日突然、
パーンと神の言葉に打たれて
神に引き寄せられる。

そういう不思議なことが
教会に足を向かわせるんです。