-  1章 クリスチャンが試練を通らされる理由 -

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※ 神について、神とあなたの関係についてのあなたの人生にとって一番重大な質問

 

最初のふたつの節は、この書簡のイントロダクションです。そして、残りの1章全体には、人生の計画のための神さまのはげましについて書かれています。パウロはこの書簡を元気に始めます。

 

(II コリント1:1)「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。」

 

 パウロは、「使徒」としての”権威“によってこの書簡を書いています。私は、今日、どんな牧師も権威を持って語るべきだと感じます。パウロは、“神のみこころによる”使徒でした。これ以上の資格はありません。これが権威なのです。もしあなたの人生が神さまのみこころのうちにあるなら、あなたの心のうちに疑問はないはずです。もしあなたが神さまのみこころのうちにいるなら、あなたがどこにいても、あなたがどのような状態でも、環境がどうであっても、違いはありません。あなたは、すばらしく、栄光に満ちた場所にいるのです。パウロが教会に書簡を書くときには、彼はテモテを自分自身とまったく同等に置きます。私は、パウロがほかの人たちを自分と同じ水準に置く、その置き方が気に入っています。教会は主のものであることを忘れないでいようではありませんか。彼らはアカヤ全土に出て行き、 キリストのために証しをしました。多くの人々がキリストのために勝ち取られました。パウロは、このすべての人たちのためにも語っているのです。

 

(II コリント1:2)「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 

 パウロはこのあいさつを良く使います。恵みと平安は、神さまから信者たちへの偉大な贈り物です。

 

(II コリント1:3)「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」

 

 (詩篇34:1)「私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

 

この詩篇によって、聖徒たちは不平を片付けてしまうべきです。私たちは主を“ほめたたえる”べきなのです。慈愛は、神さまがあまりにも私たちを愛されたので、私たちのために救い主を用意してくださったことを意味します。もし、何か助けが必要なら、神さまのところに行きなさい。結局のところ、今日あなたが持っているものは何でも、すべて神さまからの慈愛なのです。私は神さまの慈愛によってガンにかかりました。私たちに与えられているすべての物は慈愛です。人生の厳しい試練の中で、神さまが慰めの神であることをテストすることができます。苦しみは、厳密な試験です。神さまはすべての慰めの神です。この方は、私を助け、力づけ、寂しさを軽減し、悲しみを和らげ、恐れを静めてくださるために、召された方なのです。この方は、恐ろしい困難のときの助け をもたらしてくださいます。

 

(詩篇30:10)「聞いてください。【主】よ。私をあわれんでください。【主】よ。私の助けとなってください。」

 

この詩篇の叫びは、慰め主を必要としているたましいの叫びです。神さまはすべての慰めの神なのです。

 

(II コリント1:4)「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

 

 私たちに本当に必要なのは、困難なときの慰めなのです。私たちは、もっとも大きな必要の領域にも、寂しさの中にも、人生の絶望的なときにも、人生のすべての状況の中に神さまがおられるという確信を必要としています。神さまは私たちが試練を通っていることを必ず知っておられます。人間の肉は出来れば苦しみを受けたくないと要望します。しかし、苦しみは神様のご計画の中にあります。前提条件は神様は決して苦しみ、試練を解決できない御方ではないという事です。神さまは全知全能なるお方です。苦しみと試練は絶対に無意味ではありません。

 

(II コリント1:5-6)「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」

 

 パウロはこれから、自分が通ってきた困難と、今受けている困難、そしてそのすべてを通して彼が受けた神さまの慰めのことをたくさん話そうとしていることが分かります。苦しみと試練がなければ、どれほど神さまが私たちを励ましてくださるお方か知ることもありません。キリストにあっての苦難があふれるならば、キリストにあっての励ましもあふれるのです。わたしたちが受けた苦しみは、必ず他のクリスチャンのはげましになるのです。

 

(II コリント1:7-10)「私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」

 

 すばらしいことです。この節は、神さまがなぜ私たちに困難が起きたり、私たちが病気になったりすることをお許しになるかを説明しています。神さまはその苦しみが、信じる者たちの益となるように意図しておられます。神さまがクリスチャンに試練を与えられる最大の理由は、神さまに頼るものとなるためです。そして神さまは私たちの経験が良い目的のために役立って、誰かほかの人を慰めてあげることができるように、意図しておられるのです。あなたや私に与えられているすべての物は、神さまの慈愛のゆえに与えられています。そして私たちがすべての物を持っているのは、ほかの人たちの益となるためです。あなたが何を持っているにしても、神さまはあなたがそれをほかの人たちと分かち合うことができるようにと、くださったのです。神さまは慈愛としてそれらのものをくださいました。もしあなたが健康、富、若さ、才能、賜物を持っているなら、神さまはあなたがそれをほかの人と分かち合うために使うことを望んでおられます。ひとつひとつが神さまの慈愛から出ています。そして、ちょっと待ってください。苦しむことも神さまの慈愛から出ているのです。もしあなたが、キリストのために苦しんでいるのなら、神さまがその苦しみがあなたに起こることを許されたのです。

 

(II コリント1:11)「あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。」

 

 神さまは私たちにも祈ることを望んでおられます。そして、私も祈ってくださるように訴えました。神さまに感謝します。多くの人たちが私のために、何年も祈り続けてくださっています。私たちの苦しみは、ほかの人たちの益となるためです。太陽が照っているとき、クリスチャンはのん気になりすぎます。彼らは実際的な義の衣を脱いで、この世と妥協し始めるのです。現代、大ぜいの人たちが、まさにそうしているのです。

 

(II コリント1:12)「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」

 

 もし私たちが神さまのために証しとなってきたのなら、それは私たちが「聖さと神から来る誠実さ」とをもって生きて来たからなのです。パウロは、神さまの恵みによって、苦しみが彼の人生に証しを生みだした、と言っています。お分かりのように、苦しみは神さまの慈愛であり、苦しみが私たちの人生に、ほかの人たちに分かち合うべき、高い質を生み出すのです。

 

(II コリント1:13-15)「私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。

 

 「最初のとき、私はあなたがたにとって祝福ではありませんでしたか?今私は、二度目にあなたがたのところに行こうとしています。そして私は、あなたがたの祝福になりたいのです。」とパウロは言っています。

 

(II コリント1:16-17)「すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、『しかり、しかり』は同時に、『否、否』なのでしょうか。」

 

 今パウロは、自分は確かに誠実だったのだと言っています。彼は、自分がイエスと言うときにはイエスという意味で、ノーと言うときにはノーという意味だと言います。今日の信者はそのような種類の人間であるべきです。彼らはビジネスの世界や日常生活の中で、約束をしたり、打ち合わせをしたりするときに、軽々しくするべきではありません。私たちには、自分の言ったことに責任を持つ、クリスチャンの人たちが必要なのです。

 

(II コリント1:18)「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、『しかり』と言って、同時に『否』と言うようなものではありません。」

 

 パウロは、まるで彼が移り気であるかのように、「行きます」と言ってから「行きません」と言ったのではないのです。なぜでしょう?なぜなら、“神さま”が彼を導かれたからです。彼は“神さま”のみこころのうちにいたのです。

 

(II コリント1:19)「私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』と同時に『否』であるような方ではありません。この方には『しかり』だけがあるのです。」

 

 彼が宣べ伝えた福音は、栄光に満ちた、積極的な福音であって、「しかり」でした。福音は、神さまが私たちのためにしてくださったことです。良き知らせです。私たちには、誠実な神さまがおられるだけではありません。確かな主イエス・キリストがおられるのです。

 

(II コリント1:20)「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」

 

 キリストのうちにあるすべての物は積極的です。クリスチャンのあなた。神さまはあなたに好意を持っておられるのですよ。

 

(II コリント1:21-22)「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」

 

 あなたには誠実で真実な神さまと、確かな主イエス・キリストがおられるだけでなく、あなたのうちに内住しておられる、聖霊がおられます。堅く保たれる、とは何を意味するのでしょう? 私たちはそれが聖霊の働きであると信じています。何よりもまず、聖霊は有罪を宣言します。主イエスは、聖霊がこの世に来られるとき、聖霊はこの世に罪と義とさばきを認めさせる、と言われました。もし、罪を宣言され、私たちが自分の罪を告白し、キリストを自分の救い主として受け入れたとしたら、聖霊が行なわれる第二のことは、私たちを新生させることです。そして、聖霊は私たちを新生させてくださるだけでなく、私たちのうちに内住してくださるのです。また、聖霊が私たちのうちに内住してくださるだけでなく、聖霊は私たちにバプテスマを授けられます。あなたは、主のからだの一部分として、安全です。何とすばらしい安心ではありませんか!私たちをすべての真理の中に導かれるのは、聖霊です。聖霊だけが、あなたに神さまのみことばを開くことがおできになります。だからこそ、聖書は奇蹟の本なのです。

 

(ヨハネ16:12-13)「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。・・・」

 

聖霊は、あなたをすべての真理に導き入れたいと“願って”おられるのです。「神はまた、確認の印を私たちに押し、」これは、御霊の驚くべきミニストリーです。聖霊は、あなたが神さまに属していることを示すために、あなたに焼印を押されます。もしあなたが神さまの小さな羊であるのなら、あなたは迷子になることはありません。確かにあなたは迷い出ることもあるでしょうが、神さまがあなたを見つけに来てくださいます。聖霊は、神さまの豊かさが私たちの経験の中に実を結ぶために信者の人生の中に入ってこられたのです。あなたが今日必要としているものは何ですか?あなたは、神さまが慈愛に満ちたお方であることを知っておられます。神さまは慈愛の父なのです。あなたは何が必要ですか?神さまのところに行って、お願いしてはどうですか?力が必要ですか?喜びが必要ですか?知恵が必要ですか?助けが必要ですか?これらは慰めです。神さまは慰めの神です。パウロはそれを知っていました。経験していました。同時に、著者(訳注:マギー博士のこと?)も知っています。彼も“経験”したからです。

 

(II コリント1:23)「私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。」

 

 「もし私がもうそちらに行っていたら、私はあなたがたに対して、手厳しかったことでしょう。でも私は、あなたがたをそのような目に合わせたくありません。あなたがたが、このことを自分たちで処理できるのを見たいのです。」 

 

(II コリント1:24)「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。」

 

 パウロは、「私はあなたがたのたましいの監督ではありません。私はあなたがたに対して威張ろうとしているのではありません。あなたがたには、キリストにあって完全な自由があるのです。私はただ、あなたがたの喜びの助け手になりたいだけです。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです」と言っているのです。あなたも私も、自分自身の信仰に堅く立たなくてはなりません。彼らの信仰が強くされ、彼らが主にあって成長するために、パウロは離れていたのです。神さまが私たちの多くに、人生の特定の困難を通ることを許されるひとつの理由は、私たちの信仰が強くされ、主にあって成長するためなのです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「コリント人への手紙第二」をお読みください。

 

― 特別聖書集会のご案内 香川県高松木太キリスト教会 -

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6月3日(金) ① 19:30~20:30

6月4日(土) ② 14:00~15:00  ③ 19:30~20:30  

6月5日(日) ④ 10:00~11:00  ⑤ 14:00~15:00

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約12分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

救いの福音のメッセージ文書版です。是非お読みください。

 

 

 

是非これを読まれた方が主イエス・キリストを信じ救われることを心より願っております。罪のゆるしについて、死後のさばき(永遠の地獄)からの救いについて、真剣に考えたい方、話を聞きたい方は是非プロフィールクリック→メッセージください。あなたがどうすれば救われるのか一緒に考えさせてください。

 

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イグアスの滝(自分で撮った写真です。)悪魔の喉笛です。

~一番ポピュラーな、悪魔の喉笛の由来は、その下の岩に打ち付ける滝の音が、悪魔が唸り声を上げている様に聞こえるから...~