- イントロダクション -
※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。
主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。
これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。
ヤコブの書簡は、ヤコブの手紙、I・II ペテロの手紙、I・II・III ヨハネの手紙、ユダの手紙を含み、慣例として‘一般書簡’と呼ばれている一連の書簡の最初のものです。特定の個人や特定の教会宛に書かれているのではなく、教会全体に宛てられていて、全般的(universal、普遍的、一般的)であるという意味で、これらは、一般的あるいは「普遍的な(catholic)」書簡と呼ばれています。
“どの”ヤコブが著者だったのでしょう?一部の人たちは、新約聖書の中には、ヤコブ
という名前の人物が少なくとも4人いることを見つけています。私は、はっきりと誰だか分かるヤコブは、3人いると思います。
1.ヨハネの兄弟で、ゼベダイの息子のひとりだったヤコブ。
ヨハネとヤコブは、主に「雷の子」と呼ばれていました。(マルコ3:17参照)
(マルコ3:17)「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」
このヤコブは、同じときにシモン・ペテロを牢屋に入れていたヘロデによって殺されました。(使徒12:1-2参照)
(使徒12:1-2)「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
2.アルパヨの息子で、「小ヤコブ」と呼ばれていたヤコブ。(マルコ15:40参照)
(マルコ15:40)「また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。」
彼は、12使徒のひとりに数えられていますが、彼についてはほんの少ししか知られていません。私は、自動的に彼をこの書簡の著者からはずします。
3.主の兄弟ヤコブ。
彼は、マリヤとヨセフの息子で、主イエスの異父兄弟でした。マタイの福音書13:55節には次のように書かれています。
(マタイ13:55)「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。」
始まりには、主の兄弟たちは全く主を信じてはいませんでした。でも、ヤコブがエルサレムの教会の代表者となるときが来たのです。使徒の働き15章では、ヤコブはあの偉大なエルサレム会議の議長を務めていたようです。少なくとも彼は、最終弁論をし、聖霊の導きのもとに会議に決定をもたらしました。私は、パウロがガラテヤ人への手紙2:9で言及しているのは、このヤコブのことだと信じています。
(ガラテヤ2:9)「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」
このヤコブこそ、私たちがこの書簡の著者であると信じている人物です。
この書簡は、紀元45-50年あたりに書かれました。ヤコブの書簡は、新約聖書の中で一番最初に書かれた書です。ヤコブのテーマは、おこないではなく、信仰であることははっきりしています。パウロのテーマと同じです。
ただしヤコブは、信仰が生み出すものを強調しているのです。ヤコブもパウロも、信仰“と”おこないについて、多くのことを語っています。彼らは私たちに、信仰による義認のふたつの局面を与えてくれます。どちらも、パウロの書簡のなかに、はっきりと示されています。
1.“信仰”―私たちは、おこないに“よって”義とされるのではありません。
(エペソ2:8-9)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
2.“おこない”―私たちはおこないをする“ために”義とされました。テトスへの手紙3:8で、パウロは次のように言っています。
信仰は、救いの“根(root)”です。パウロはそのことを強調しています。おこないは、救いの“実”です。ヤコブが強調しているのはそのことなのです。あるいは、次のように表現することができます。信仰が救いの原因であり、おこないは救いの“結果”であるというわけです。
パウロが、おこないはあなたを救うことはないと言うとき、彼は律法のおこないについて語っています。ヤコブが、おこないは必要不可欠なものであると強調するとき、彼が語っているのは信仰のおこないについてであって、律法のおこないのことを語っているのではありません。ヤコブは言いました。
(ヤコブ2:18)「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』」
神さまは上から見おろされ、あなたの心をご覧になります。そして神さまは、あなたが信じているかどうかをご存知です。それが信仰による義認です。でも、あなたのお隣さんは、あなたの心を見ることはありません。お隣さんは、あなたのおこないによって、つまりあなたの信仰の“実”によってしか判断することはできないのです。
次にあげるのが、私がこの書簡のカギとなる節であると考えているふたつの節です。
(ヤコブ1:22)「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 」
(ヤコブ2:20)「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」
ヤコブの書簡は、キリスト教の教理ではなく、倫理を取り扱っています。ヤコブはまさに実際的なものに迫りますが、信仰という主題からも離れることはできません。明らかに、ヤコブという人はとても実際的な人物でした。伝統では、彼には「らくだのひざを持つヤコブ」という名前が与えられたと言われています。なぜなら、彼はとても長い時間を祈りに費やしたからです。(訳注:彼がいつでもひざをついて祈っていたので、ひざにたこができて、“らくだのひざ”のようになった、ということのようです。)
実際的な性質のゆえに、この書簡は山上の垂訓と同時に、箴言と比較されて来ました。ヤコブは、信仰による義認は、おこないによって実演されると主張します。信仰による義認は、おこない(1-2章)と、ことば(3章)と、世俗的であること(4章)と、そして金持ちたちへの警告(5章)の試験管に注ぎ入れられなければなりません。
※ 是非、引き続きブログテーマ「ヤコブの手紙」をお読みください。
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