- 1章 神さまは、試練によって信仰を試される。 -
※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。
主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。
これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。
ヤコブの書簡はとても実際的な書で、キリスト教の教理よりもむしろ倫理を扱っています。ヤコブはまさに実際的な問題に迫りますが、同時に彼の書簡全体を通じて、信仰という主題も見られます。ヤコブの手紙の強調点は、信仰によって生み出されるおこないにあります。最初の3つの章では、ヤコブは純粋な信仰の検証について語り、神さまが信仰を試されるいくつかの方法を私たちに教えてくれます。
(ヤコブ1:1)「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。」
もし自分が、主の人間の側の異父兄弟であったとしたら、この書簡のどこかでそのことを知らせるだろうことは確実です。(訳注:自分なら、自分が主の兄弟であることをひけらかすだろう、という意味でしょう。)その事実を、とても敬虔で謙遜なしかたで知らせることでしょうが、どちらにしても、確かに知らせるだろうと思います。でも、ヤコブはそうしていません。その代わりに彼は、自分のことを神と主イエス・キリストのしもべと呼んでいるのです。
最初、主イエスの人間の(異父)兄弟たちは、主が神さまの御子であることを信じませんでした。ヤコブは、自分の血のつながった兄弟としてだけでなく、自分の救い主として主イエスを知るようになり、そして主の奴隷になったのです。“イエス”というのは、ただの名前ではなく、主が人々を彼らの罪から救われることのゆえに、イエスと呼ばれたのです。彼はこの当時の、クリスチャンのユダヤ人たちにあてて手紙を書いています。
(ヤコブ1:2)「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」
さてヤコブは、普通ではない状況下で、喜ぶことについて語ります。言い換えれば、困難に会ったとき、何か自分にとんでもないことが起こったかのように、泣き出してはいけないということです。あなたは“喜ぶ”べきであり、神さまがこのような方法であなたをテストしておられることを、喜びと思うべきなのです!ヤコブは続けて、神さまは困難を与えるのが目的で私たちに困難をお与えになるのではないことをはっきりと示します。困難自体が終わりではないのです。
(ヤコブ1:3)「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」
ヤコブはここで、あなたの困難に対するあなたの心の態度について話しているのです。何か良い目的があるのでなければ、試練は意味がなく、苦しみは愚かで、試験は不合理です。神さまは、これらのものには理由があると言われます。良い理由です。
(ローマ8:28)「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
外側からの試練のプレッシャーが私たちの上にあり、そして私たちが逆境と悲劇と苦しみの火の中に置かれるとき、信仰の態度は、神さまが目的として可能にしてくださったように、気高く高尚なものとならなければなりません。私たちには、神さまが私たちの人生の中から何かをやり遂げておられることが分かります。
これは“信仰の”テストです。私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むのです。「悲しみの酸が、信仰のコインを試す。」このことばの中には、多くの真理があります。神さまは、目的を持って私たちの信仰を試されます。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」と書かれています。神さまは私たちの人生の中に忍耐を生み出すことができるように、私たちを試されるのです。
(ヤコブ1:4)「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
忍耐は、苦しむことと試練を受けることを通してやって来ます。忍耐がなくては、あなたは「完全な」、つまり完成した十分に成熟したクリスチャンになることは決してありません。そのようなわけで、一部のクリスチャンは決して成長せず、赤ん坊のままでいるのです。神さまは、私たちが成長を遂げたクリスチャンになれるように、私たちの生活の中に忍耐を生み出すためにテストや試練をお与えになるのです。今日私たちは、どれほどそのことを必要としているでしょう。神さまは、私たちが忍耐を学ぶように、私たちに困難を送られます。この忍耐は同時に、人々の人生の中に希望と愛を生み出すのです。
(ヤコブ1:5)「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
もしあなたが、問題に関して知恵に欠けているのなら、祈りのうちに神さまのところに行く必要があります。知恵は訓練であり、知識を実際に使うことです。多くの人々は知識は持っているのですが、彼らには実際的な感覚というものが何ひとつありません。知恵があることは、テストや試練という特定の状況下で、あるいは、問題や疑問が起こったときに、どのように行動するか知っていることです。人生はそれらのもので満ちています。そしてあなたも私も、神さまからの知恵が必要なのです。もし私たちが知恵に欠けているなら、私たちの祈りを聞いてそれに答えてくださる神さまのところに行こうではありませんか。
(ヤコブ1:6)「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」
私の全たましいをかけて、キリストが私を救われ天国に向かって私を救ってくださることを信じています。私はそのことは、心から信じていますが、実際に物事が起こっているこの地上の、この人生において問題があったのです。神さまを信頼して、それらのことを神さまに差し上げてはいかがですか?
私は、自分には人生の問題に直面する脳みそはないことが分かっています。また私は、この複雑な文明の中に住むのに十分有能でないことも知っています。でも私には、私に必要な知恵を備えてくださることのできる天の父がおられるのです。
私たちは「私は神さまがこのことを解決してくださると信じている。」と言いながら、そのあとその問題に自分で飛び掛って、自分自身の決断をします。あまりにもしばしば、私は問題を主にお渡しして主を信じておいて、その次の日には主を信じないことがあります。何も解決が出てこないから、それでは自分で解決しようと判断するのです。私はそこで間違いを犯します。そのような人間は、「風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」と書かれているとおりです。
(ヤコブ1:7)「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」
もしあなたが自分で問題を解決するのなら、神さまはあなたのためにそれを解決してくださることはできません。何かを解決しようとして、雄牛が瀬戸物の棚に突っ込むように走って行くのではなく、神さまにそのことをお渡ししてはどうですか?
(ヤコブ1:8)「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
イスラエルは、助けを求めてエジプトに飛んで行き、そのあとアッシリヤに飛んで行きました。イスラエルは、最初はこちら、そしてその次はあちらに頼りましたが、神さまに頼ることをしませんでした。今日の1日をスタートしたとき、あなたは今日の問題を神さまにお渡ししましたか?人生の問題に直面するために、私たちには知恵が必要なのです。
(ヤコブ1:9)「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」
もしあなたが神さまの子どもであるなら、あなたには、多くの富があります。天に宝があるのです。それに、あなたは立ち止まってこの地上で自分が何を持っているか、キリストにあって何が与えられているかを考えたことがありますか?私たちは主にあって、すべての物を持っているのです。
(I コリント3:21-23)「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」
私はキリストのものであり、そして、主は持っておられるすべての物を私にくださいます。あなたが最もへりくだった聖徒であるか、地上で一番貧しい人であるかに関わりなく、あなたはキリストにあって富んでおり、あなたは喜ぶべきものを持っているのです。
(ヤコブ1:10)「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。」
この金持ちたちが、今日どこにいるかご存知ですか?彼らは、昨日咲いて、今日はもうなくなってしまった花のようです。金持ちで、影響力があって、彼らはどれほど権力があったことだろうと思いますが、でも今日彼らはどこかの墓の下で眠っており、消え去ってしまったのです。
(ヤコブ1:11)「太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」
私にはそれだけでも十分ですが、あなたには、あなたを天国へと救ってくださるだけでなく、まさに、今日このときにあなたを助けてくださる救い主がおられることを、今日喜びなさい。神さまは、ご自分の者であるすべての人たちを、クリスチャンとして成熟させたいと願っておられ、そのために多くのテストをされます。神さまは、ご自分の子どもたちすべてが純粋であるかどうかをテストされ、いかさま師と偽聖徒という雑草を取り除かれます。神さまはまた、ご自分の子どもたちに確信をお与えになりたいのです。
神さまは、あなたがご自分の純粋な子供であることの証拠をあなたに与えたいと思っておられるだけでなく、あなたの人生に忍耐を生み出したいと願っておられるのです。私は彼に、なぜこのことが起こっているのかを教えることはできませんでしたが、でも、そこには目的があって、神さまが彼女の人生に何かを成し遂げておられるのだということは彼に話すことができたのです。
(ヤコブ1:12)「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
信仰が試され、暗やみに囲まれたとき、波が逆巻いてすべての物が失われたように思えるとき、神さまの子どもはこれが終わりでないことを知っています。今は陰うつであるかも知れませんが、あとになって栄光があらわれるのです。ヤコブはここで、「神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と言っています。
私は、大きな苦しみを通った人々が、主イエス・キリストとのより親しい関係に入れられることに気づいて来ました。「あなたは、その火の真ん中でわたしがあなたとともに歩んでも燃える炉の熱に耐えられないのか?わたしは十字架を耐えた。わたしはその重さを知っている。わたしはあなたのための杯を飲み干した。あなたはわたしが導くところについて来られないのか?わたしはあなたに強さを与えよう。わたしにしっかりと寄りかかりなさい。」
苦しみは人をキリストとの愛の関係に導きいれます。冠とは、救いのことではありません。報酬を象徴しています。個人に報酬として与えられるものです。私たちは試練を受けます。でも、その試練のもとで耐え抜いた人々には、いのちの冠が用意されているのです。信者のためには、“報酬の等級(degrees of rewards)”があります。
私は、自分が使徒パウロや、マルティン・ルターや、あるいはジョン・ウェスレイが受け取るような報酬を受けるとは思っていません。彼らが受けるような報酬は期待していませんが、それでも、何かしらを受けられることを願っています。私はそのことに、とても興味があります。私は、「いのちの冠」は、ほかの何ものにも増してあなたを主イエスとの親しい関係に導き入れることができるものだと思っています。
(黙示録2:17)「『耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。』」
私の最善の結論は、黙示録の中で語られている新しい名前とは、神さまが私たちひとりひとりに石をくださり、その石には、私たちが主とともに経験したことに当てはまるキリストの名前が書かれているということだと思います。あなたにとって主は、ほかの誰かにとってとは少し違う、特別な意味を持っておられるでしょう。言い換えれば、あなたにとっての主イエスは、私にとっての主とは違う意味を持っておられるということです。主は私にとって、あなたにとっての主とは何か違う意味を持っておられるのです。
いのちの冠とは、あなたが天国で、ほかの人は持っていないいのちの学位を受けることを意味しているというのが私の結論です。「問題が起こったり、試練のとき、私は主のところに行って主を賛美し主に申し上げるんです。『主よ。感謝します。この問題は、通り過ぎるためにやって来たんです。ここに留まるためにやって来たのではありません!』」その冠は、主がこの人生の試練に耐えた人々、主を“愛する”人々にくださる冠です。「誘惑(temptation)」ということばは、ふたつの意味で使われています。
13-14節には、悪にそそのかすという意味で使われています。ヤコブはこれから、誘惑について話します。悪を行うことへの誘惑です。私たちはしばしば自分たちの人生の多くの事がらについて、神さまの責任ではないことを神さまのせいにするからです。
(ヤコブ1:13)「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」
でも今ヤコブは、神さまは決して人間を悪や罪をもって試されることはないということをとてもはっきりと示します。強欲や貪欲、そして自己中心こそ、洪水や地震の原因なのです。人間は、あまりにも川の近くに家を建て、自然の成り行きで川の水かさが上がると、人間はそれを洪水と呼んで神さまのわざ(act of God、災害)であると言います。でも、人間が、川のそばに建てる方がもっと快適だとか、交通機関に近いとか、そこにビジネスがあると考えるのです。実際、本当に危険な場所に家を建てるのは、人間の強欲であり貪欲なのです。神さまには悪はありません。神さまのうちでは、すべてが善であり、光であり、義です。神さまは確かに、私たちが罪に誘惑されることを“許可”されます。
(ヤコブ1:14)「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
14 ここで語られているのは、肉の罪のことです。あなたが悪をおこなうようにと引き寄せられるとき、誰に責任があるでしょう?悪の誘惑に負けてしまうときは?神さまには責任はありません。悪魔にも責任はありません。 “あなたに”責任があるのです。外側にある何か、あるいは影響は、私たちに罪を犯させることはできないのです。問題はここ、私たちの内側、私たちが持っているあの古い性質にあるのです。罪を犯させる誘惑は、それに呼応する内側からの応答がなくては成功しません。ヤコブは、傲慢な欲望であり、制御されていない熱望のことであるあなた自身の欲によって、あなたは罪に引き寄せられるのだと言っています。
(ヤコブ1:15)「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
言い換えれば、たましいの欲望がはらむと罪を生み、罪が完成すると、死をもたらすというわけです。「欲が“はらむと”」と書いてあります。このことばは実際、「妊娠する」ことを意味しています。妊娠は、ふたつのものが一緒になること、あるいはひとつになることです。私たちの、この古い性質の欲が、外側からの誘惑と一緒になって私たちに直面し、そして罪となります。
罪とは、内側に向かっても外側に向かっても、行動を完成することです。さて今日、私たちは理屈をつけて罪を正当化します。かんしゃくを正当化します。うわさ話を正当化します。多くの洗練された罪、そして、ひどい不道徳さえも正当化するのです。でも、聖書はそれらを“罪”と呼んでいます。
今日の大きな罪は、おそらく姦淫でしょう。今日人々が、罪を犯してうまくやりおおせると思っているのは悲劇的です。欲がはらんだとき、罪を生み出します。欲がこの世に生み出せる唯一の種類の悪ガキは、罪であり、そして罪は死をもたらします。もしあなたが神さまの子どもであるなら、罪は、神さまとの交わりからの分離をもたらし、あなた自身が自分をさばかない限り、神さまがあなたをさばかれます。
(ヤコブ1:16)「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」
「さ迷ってはいけない。どうにかして自分は罪をうまくやりおおせると考えてはいけない。」と言っているのです。習慣的に、絶え間なく罪を犯している罪人は、確かに神さまとの対話の電話線をもってはいません。その人は決して生まれ変わってはいなかったのです。もしあなたが罪の中に生き、それを楽しんでいるなら、あなたは神さまの子どもではありません。そんなに簡単なことなのです。
(ヤコブ1:17)「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」
月の一方の側は暗く、もう片側は光です。でも、神さまのうちには、暗い側は何もありません。私たちすべての中には影があります。あなたも私も影を落とします。神さまは私たちに、きれいな空気と、純粋な水をくださったのです。それを汚染したのは人間です。神さまは“良い”贈り物をくださいます。神さまは“良い”方なのです!あなたも私も、神さまがどれほど良い方であるか本当には理解していません。
(ヤコブ1:18)「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」
これは確かに、新生をさしています。神さまはどのように私たちをお生みになるのでしょう?“神さまの”みこころが、“あなたの”意思と一緒になったとき、あなたは新生するのです。自分には責任がないなどと言ってはなりません。だれひとり滅びることがないというのが神さまのみこころです。あなたは、神さまのみことばによって生まれたのです。あなたが喜んで(神さまのもとに)行くとき、あなたが神さまのみことばを信じて主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるとき、あなたは新生するのです。
(I ペテロ1:23)「 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
(ヤコブ1:19)「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」
何を聞くのに早くあるべきなのでしょう?もちろん、神さまのみことばを聞くのにです。あなたの中には、神さまの御霊が住んでおられ、その御霊は、あなたに神さまのみことばを教えたいと願っておられます。私たちがしゃべりすぎることは本当に危険です。あなたがどのように証しするかに十分注意し、まず自分の生活を確かなものにしなさい。
クリスチャンは、神さまのみことばに対する自分たちの無知をさらけ出さないように、十分気をつける必要があります。あなたに同意しないすべての人と神学の一点一画についてのけんかを始めてはなりません。結局のところ、あなたは“すべての”真理を知っているわけではないのです。今日多くの、恥ずべきクリスチャンたちがいます。この人生の中で彼ら自身をだめにする何かと同じほどに、彼らの証しをだめにする、抑制できないかんしゃくを持った人々です。
(ヤコブ1:20)「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」
人間の怒りは、神さまのみこころや働きとは、相いれないものです。私たちが宗教について議論してはいけないのは、この理由からです。自分が信仰を擁護しているからこそ怒っているんだと感じているかも知れません。でも、人の怒りはただ神さまの義を実現することはないのです。自分は神さまのために怒っているんだなどと自分をごまかしてはいけません。なぜなら、神さまは怒っておられないからです。神さまは、救いの働きをしておられるのです。
(ヤコブ1:21)「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
すべての肉の汚れを捨て去ってしまうということです。言い換えれば、あなたは神さまのみことばを受け取るべきであるということです。私は、神さまのみことばは、肉の罪に対する最高の予防薬だと信じています。あなたはすでに、みことばの移植を受けました。みことばは、あなたの心に植えつけられたのです。みことばはすでにあなたに救いをもたらしましたが、あなたはクリスチャンとして生きるべき人生があります。
(ヤコブ1:22)「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」
この22節には、みことばの“要求”、あるいは命令があります。聖書は、“行動することを要求します”。でも、神さまのみことばは命令です。らっぱです。行動を起こさせる訴えです。
神さまのみことばは、信じることを要求します。神さまのみこころに関する限り、救われていない人々が“しなければならない”ことは、キリストを“信じる”ことだけです。みことばの目的は、創造的な行動を生み出すことであり、生産的な行為、わくわくする生活、そして感動的な経験に向かって進むことです。
もし私たちが、内側からの熱望に動機付けられ、御霊に満たされた生活を楽しんでいるなら、あなたも私もゴルフ・コースに出てゴルフをすることを楽しみ、それから、同じようにバイブル・スタディを楽しむのです。事実、バイブルスタディは、私たちにとって感動的なものとなります。神さまのみことばを聞くことは、内側の熱望によって動かされて、神さまのために何かをおこなうことにつながります。信仰に立てあげられたなら、私たちは信仰のうちを歩み続けるべきであって、泥にはまって(stick in the mud、ぐずついて、行き詰って)いてはならないのです。
(ヤコブ1:23)「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」
23節、24節には、みことばの“危険”が書かれています。鏡は私たちの欠点を明らかにします。でも、ここには危険があります。鏡を覗き込んで、欠点を見ていながら何もしないという危険です。
(ヤコブ1:24)「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」
自分たちが罪人であるという事実を聖書の中で読むことを好まない人は、単にこれらの部分を飛ばして読みます。原文どおりの説教が時代遅れになってしまったのは、その理由からだと思います。私たちは、感じの良い、優しい節だけをここ、あそこと取り出すのではなく、神さまのみことば全体を網羅する必要があります。神さまは、節ごとにみことばをくださったのではありません。節は人間が作り出したものです。私たちは神さまのみことばを、そのままに受け取る必要があるのです。
みことばは、あなたの何が間違っているかを明らかにする鏡です。神さまのみことばはあなたの反応を要求します。そしてもしあなたが反応しないのなら、“あなたに”責任があるのです。もしお医者さんがあなたにガンがある、と告げ、それに関してあなたが何もしなかったなら、お医者さんに責任があるでしょうか?彼には、全く責任はありません。神さまはあなたにご自分のみことばをお与えになりました。そして、そのみことばに対する応答の責任はあなたにあります。
みことばは、私たちの存在の表面よりも下に浸透して、私たちのありのままを明らかにします。今日、聖書は人気のある本ではありません。ベストセラーですが、一番読まれていないのです。人気がないのは、聖書は私たちのありのままを示すからです。神さまのみことばを読んで、これは誰かほかの人の姿だ、と考えるのは、あまりにもたやすいことです。でも、これは、あなたの姿であり、私の姿なのです。
(ヤコブ1:25)「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、モーセの律法ではありません。恵みの定めのことです。ヤコブが律法の話をするときには、それは信仰の律法のことです。旧約聖書の中の律法には愛があり、新約聖書の中の愛には律法があります。
(ガラテヤ6:2)「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法(law)を全うしなさい。」
何の律法でしょう?キリストの律法です。ヨハネは、最初の書簡の中で、
(I ヨハネ5:3)「神を愛するとは、神の命令を守ることです。・・・」と言っています。
今日神さまは、ご自分の子どもたちを、もっと高いレベルへと召しておられます。神さまの子どもは、霊的な自発性、高く堂々とした動機、神さまのインスピレーションを持っています。信者には、人殺しをしたい、という熱望はありません。彼は法律よりも高いところで生きています。彼は今、救い主の愛に動機付けられ、主に従いたいと熱望しています。私たちがみことばを学べば学ぶほど、私たちはもっと多くのことを習い、愛し、そして生きることになります。喜びはたましいを満たし、そしてあふれ出ます。
でも、神さまのために生きるべきであるのなら、私たちは確かに神さまのみことばを知る必要があります。無知であることは恥辱ではありませんが、もしあなたが神さまの子どもであるなら無知のまま留まることは恥辱です。
(ヤコブ1:26)「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」
”宗教的”とか、”宗教”ということばは、実際に聖書のことばではありません。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は人物です。そしてその人物はイエス・キリストです。主を自分のものとしているか、していないかのどちらかです。ヤコブはここで、それがどんな宗教であっても、もし宗教的な人が自分の語ることを抑制していないのなら、彼の宗教は空しいものだと言っています。
(ヤコブ1:27)「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」
神さまの子どもは、この世の悲しみや、この世の人々の問題に、個人的に関わっているべきです。クリスチャンも、人々がいるところに出て行かなくてはなりません。私たちは、公の場の宗教も同時に持つ必要があるのです。私たちは、優しさと、親切心と、助けをもって、個人的な方法でこの世と接触しなければならないのです。今日、そこら中にそのような個人的な接触を欲しがっている人たちが大勢います。あなたは、この人々に、優しく、愛と考慮と親切に満ちたクリスチャンとしての接触をすることができます。でも、この世から自分をきよく守ることを忘れないようにしようではありませんか。私たちは、あまりにもこの世のことに巻き込まれてしまって、危険になる可能性があるからです。
※ 是非、引き続きブログテーマ「ヤコブの手紙」をお読みください。
※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。
是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください!



