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  -  ヘブルへの手紙4章  ~ :キリストはヨシュアよりもすぐれておられる。 ~ -

※太字は聖書からの引用です。

 

(ヘブル4:1)「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」

 

 私は、今日の信者たちの中に、神さまのみことばに関する無知についてもっと心配する心があったら良いのにと思います。自分が聖書を知らないことを恐れる信者はほとんどいません。それが問題です。ここでは著者は、カナンの安息について話しています。彼は信者たちに、「恐れなさい。なぜなら、あなたもカナンの安息を見逃したくはないでしょう。」と言っています。今日、どれほどの信者たちがその安息を見逃しているでしょう?クリスチャンのあなたは、本当にキリスト信頼して、主のうちに安息を得るとはどういうことだか、知っていますか?

 

(ヘブル4:2)「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」

 

 ここには救いの「安息」、つまりキリストを救い主として信頼することの安息が書かれています。彼らも福音を聞いたのに、彼らは信じなかったのです。あなたも私も、意地の悪いよこしまな世界に生きています。この世は、恵みの友ではありません。信者の友ではないのです。私たちの多くは、そのことにまだ気づいていません。

 

(ヘブル4:3)「信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」

 

 ここでは救いの安息、キリストを信頼することの安息が語られています。

 

(ヘブル4:4)「というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた』と言われました。」

 

 これが安息日です。神さまは七日目に休まれました。それが安息日でした。でも今日、‘安息日’は私たちが守る“日”のことではありません。あなたは今日“本当の”安息日に入りましたか?あなたは、自分の救いのためにキリストを、キリストだけを信頼することを知っていますか?あなたは何かほかのものを頼っていますか?それとも“主”だけですか?あなたは安息に入っていますか?「確かにそうだよ。1週間、毎日がキリストのうちにある休みの安息なんだからね。」 

 

(ヘブル4:5-6)「そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない』と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、」

 

 あなたから救いの安息を奪い、神さまがあなたにくださることのできる満足と祝福の安息を奪うものは、不信仰です。ああ、神さまは何とすばらしい安息を私たちにくださろうとしていることでしょう!

 

(ヘブル4:7)「神は再びある日を『きょう』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」

 

 神さまは、明日とは言っておられません。きょう、と言われます。 “きょう”があなたと私のための日なのです。きょう、たった今、あなたがどこにいようと時計を見てください。今何時ですか?その時間が救いのときなのです。 “今”、たった今あなたはキリストが自分を救ってくださると信じることができるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と書かれているとおりです。

 

(ヘブル4:8)「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」

 

 イスラエルの人々は、神さまが彼らのために用意してくださっていたすべての祝福の中にはまだ入って行っていなかったのです。ヨシュアは彼らのために すべての祝福を保証することはできませんでした。でも、もしあなたがキリストを信頼するのなら、キリストはあなたを現代のカナン、つまり実りと、祝福と、喜びのある人生に導き入れることがおできになるのです。ああ、今日私たちはどれほどその祝福を必要としていることでしょう!その祝福を私たちから奪い取るのは何でしょう?不信仰なのです。

 

(ヘブル4:9)「 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」

 

 ここで著者は、神さまのすべての民が天国の安息を見い出す将来を投影しています。天国は、深い満足と、本当の喜びと、本当の祝福の場所になるのです。

 

(ヘブル4:10)「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

 

 神さまは休まれました。ご自分の労働を終えられ、完成されたのです。だからこそ、あなたは自分の救いのために何かをしようとして、自分の小指さえもあげる必要はないのです。神さまが“すべて”を私たちのためにすでにおこなってくださいました。主は私たちに“完成した”救いを提供してくださるのです。そして、私たちがキリストを信じるとき、私たちは主にあって新しく造られたものとなります。

 

(ヘブル4:11)「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

 

 私は、神さまの子どもに与えられる最高の満足は、自分が神さまのみこころのうちにいること、神さまのみわざをおこなっていること、そして、主を信頼してただ主のうちに休んでいることだと思います。そのような安息こそ、 神さまがあなたや私にそこに来て欲しいと願っておられる栄光の場所です。平和を持つためには、その前に戦いに勝たなくてはならないのです。平和を持つことができる前に勝利を得なければなりません。

 

 世界中でただひとつ、 この安息をあなたから奪い取ることができるのは、不信仰だけです。「ああ、神さま。私があなたを信頼できるように助けてください。」と祈って来ました。ですから今日、私は単純にゆったりと構えて、神さまを信頼したいのです。神さまは何とすばらしい方でしょう!神さまは私たちの信頼に値するお方なのです。

 

(ヘブル4:12)「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

 

 私は、おもにここで指しているのは、神さまの書かれたみことばのことであると信じています。書かれたみことばは、キリストを啓示している、つまり、生けるキリストを明らかにする枠組み(frame、背景、フレーム)なのですから、ここで指しているのは、書かれたみことばと生けるみことばの両方であることができます。神さまのみことばは「生きて」います。「力があり」とは、ギリシャ語で“エネルゲス(energes)”で、「活気付けること」を意味します。神さまのみことばは生きていて、活気付けるのです。

 

 神さまのみことばは両刃の剣です。みことばは相手にも切りつけますが、あなたや私をも切りつけるのです。神さまのみことばは両刃の剣であり、刺し通すものなのです。テサロニケ人たちは、みことばをただ普通のことばとして受け取ったのではなく、まさに神さまのみことばとして受け入れました。

 

(I テサロニケ2:13)「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

 

 これらの人たちは、みことばを通してキリストの救いの知識に導かれた人たちであり、自分たちのクリスチャンとしての信仰を喜び、そして祈りを楽しむところに導かれた人たちなのです。それが神さまのみことばの目的です。神さまのみことばは、あなたとあなたの生活に影響を及ぼすのです。神さまのみことばだけが、たましいと霊を分けることができるのだということをご存知でしたか?あなたや私にはそのようなことはできません。

 

 みことばは、この私たちの肉体にさえも降りて来て、しっかりと区別をつけてくださるのです。聖書こそが、私たちをさばくのです。お分かりのように、聖書は元来、“行動”を取り扱うのではないのです。手がおこなうことは、心が考えたことです。心は、手がおこなうことを手がまだ自分のものとする前に、支配しているのです。ですから神さまのみことばは、心に降りて行って心を取り扱います。

 

(マタイ15:19)「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

 

神さまのみことばは、私たちの心の核心を取り扱います。

 

(ヘブル4:13)「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

 

 あなたは、神さまからなにひとつ隠しおおせることはできません。神さまはすでに知っておられるのですから、神さまにすべてのことをお話したほうが良いというものです。

 

この章の14節から始まって、7章28節まで、この書簡の著者は、キリストがレビ記の祭司職よりもすぐれておられることを示して行きます。 このことは、ヘブル人の信者たちにとって、とても重要なことでした。なぜなら彼らは、最初には天幕で奉仕し、のちに宮で奉仕をした祭司たちであるレビ記の規則に従った大祭司を通して、神さまに近づくことに慣れていたからです。その祭司たちをとおして、彼らは自分たちの神さまへの献身をし、自分たちのいけにえを持って行ったのです。主イエス・キリストご自身こそ、私たちの偉大な大祭司です。彼は、この書簡を読んでいる人たちに、すぐに大祭司である方のことを考えて欲しかったのです。

 

キリストはレビ記の祭司職よりもすぐれておられる

 

(ヘブル4:14)「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 私たちすべてには祭司が必要です。私たちには不足したところがあるのです。私たちには助けが必要です。みんな問題点を抱えています。キリストこそ、この方を通してひとりひとりの信者が個人的に神さまに近づくことのできる、その仲介者であり祭司なのです。主イエス・キリストはこの地上におられたときには祭司ではありませんでした。主イエスは、ユダ部族の一員でした。祭司の家系ではなかったのです。主は、王の家系でした。キリストは、三重の職務に従事しておられます。

(1)主が1,900年以上前に地上に来られたとき、主は預言者でした。これは過去のことです。

(2)今日、主は祭司であられます。これは現在のことです。そして、

(3)主は王として支配するために、いつの日にか来られるのっです。これは将来のことです。主は、これら3つすべての職務に従事しておられ、このヘブル人への書簡の偉大なる主題なのです。

 

(ヘブル4:15)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 キリストは、罪は犯されませんでしたが、誘惑を受けられました。罪は犯されなかったのですが、“試み”に会われたのです。荒野でのイエスさまの試みの中で、主は堕落することはありえませんでした。なぜなら、主は神さまであり、同時に人である方だからです。ところが、試みの重圧は、実際に私たちに対するよりも、主の上には大きいものだったのです。主は、誘惑を受けられましたが、罪を犯されませんでした。でも、主は“確かに”試みを受けられたのです。だからこそ、私たちがどのように感じるかを知っておられます。私たちには、私たちを理解してくださる大祭司がおられるのです。

 

(ヘブル4:16)「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 私たちは、主イエス・キリストに自由に話すことができます。私は、あなたに話せないことでも主には話すことができます。主は私を理解してくださいます。主は私の弱さをご存知であり、私も主にお話したほうが良いのです。主は“神さま”であり、私は、礼拝と畏敬の念をもって主のもとに行きます。

 

 それでも私は、自由に語ることができます。なぜなら、主は人でもあられるからです。主は、神さまであられますが人でもあられ、ですから私は大きな自由を持って、主のところに行くことができます。私の心に何があるのかを、主に語ることができるのです。 主に自分の心を開くことができます。ですから、私は、とても敬虔ぶった華やかなことばの祈りは、主が感心されるようなものではないのだと思います。

 

 特に、私たちが自分の心と生活の中にある何かを、おおい隠そうとしているときはなおさらです。私たちが、自由と開かれた心を持って主のもとに行かないとき、主は私たちに背を向けてしまわれるのではないだろうか?と私は思います。私たちの祈り会がもっと効果的でない理由のひとつはそれです。私たちはオープンで真実になることなしに、むしろ自分を抑えつけて主のところに行くのです。自由に主のもとに行き、主に“お話”しなさい。そこには、おりにかなった助けを得るためのあわれみと恵みがあるのです。

 

※このブログは マギー博士の残したいのちのみことばメッセージを引用しています。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ヘブル人への手紙」をお読みください。

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

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