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  -  ヘブルへの手紙2章  ~ キリストの人間性。 ~ -

 

 2章では、キリストの“屈辱”にやって来ました。主は人となられました。そして、主が人となられたとき、主は御使い“よりも低い者”になられたのです。私たちは、ヘブル人への手紙の中に、ふたつのことを見て行きます。

 

(1)主は人間に、神さまを明らかにされること。そして、

(2)主は神さまの御前に、人間を代表されることです。

 

(黙示録12:10)「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』」

 

 サタンは神さまに、私たちについて何かとても悪いことを言うこともできます。ですから私は、天に私の代表がいることを感謝しています。ヘブル人への手紙の中には、“6つ”の危険信号が書かれています。これらは、イスラエルの人々への警告です。彼らが、神さまがキリストを通して用意してくださった完全な祝福に入れないようなことがないためです。これらの6つの危険信号は、読む人たちに警告を与える幹線道路の標識になぞらえることができます。危険信号は次の通りです。

 

押し流されることの危険。2:1-4

疑いの危険。3:7-4:2

耳が鈍くなる危険。5:11-14

離れてしまう危険。6:1-20

侮る危険。10:26-39

否定することの危険。12:15-29 

 

 信者が住むことのできる、ふたつの場所があります。彼は、砂漠に住んで荒野の経験をすることもできます。あるいは、霊的にヨルダン川を渡って神さまの祝福の中に入ることもできます。このことの実例をイスラエルの中に見ることができます。

 

(ヘブル2:1)「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」

 

 「押し流され」ると書かれています。これは、単に無視するということです。人生のどの領域においても無視することは悲劇的ですが、霊的な領域において、福音のメッセージを聞きながら何もしないというのは限りなく悲劇です。私は、福音を聞くすべての人たちに「今」という世代に入ってほしいのです。「今」がそのときです。「今」が救いの日なのです。私たちには、押し流されてしまうという本当の危険があります。そして、ヘブル人への手紙は、そのことを私たちに警告しているのです。

 

(ヘブル2:2)「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、」

 

 たとえば、ふたりの御使いが、ソドムが滅ぼされるという宣告を持ってソドムにやって来たとき、ソドムは“確かに”彼らが言ったとおりに滅ぼされました。事実、どんなときでも御使いがメッセージをもたらすときには、そのことばの通りのことが実現するというのは確かです。


(ヘブル2:3)「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、」

 

 あなたはのがれる道を知っていますか?キリストだけが道です。主は、ヨハネの福音書14:6でそう言われました。

 

(ヨハネ14:6)「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

 

(マタイ11:28)「『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。・・・』」

 

(ルカ19:10)「『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」

 

それを聞いた人たちとは、主が語られるのを聞いて、主の死とよみがえりを目撃した主の弟子たちやそのほかの人たちを指しています。そして彼らは、すべてのところに出て行って福音を宣べ伝えたのです。

 

(ヘブル2:4)「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」

 

 確かにここで‘ペンテコステの日’のことを指していると思います。このときに、聖霊の賜物が用いられたのです。もちろん、それらの賜物はメッセージを確かなものにしました。誰に対して確かなものにしたのでしょう?イスラエルの民に対してです。私たちが当然のことだと思っているこれらの偉大な真理の“横”を、ただ押し流されて通り過ぎてしまうことに対する警告なのです。主はこの地上に神性を持って来られ、天に人間性を持って帰られたのです。

 

(ヘブル2:5)「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」

 

 この節は、この地上の人々のことを話しているのです。“世”ということばは、メシヤの王国、この地上にやがて来る王国のことを語っているのです。千年王国が地上に来ようとしています。過去にも御使いたちが支配することはなかったように、彼らは将来にも支配することはありません。彼らが過去にしもべであり使者であったように、将来も、彼らはしもべであり続けるのです。それがここに言い表されている考えです。さて、著者は詩篇8篇を開き、創造と関係のある、このすばらしい詩篇の解釈を私たちに与えてくれます。

 

(ヘブル2:6)「むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。『人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。』」

 

 これに対する答えは、「イエスさまは人間になられました。主は天の栄光を離れて、この地上に降りて来られました。でも、主は御使いにはなられなかったのです。」ということです。ヘブル人への手紙の著者が私たちに語ろうとしているのは、そのことなのです。私たちの国(訳注:アメリカ合衆国)は創世記の1章を信じないので、月を探検しているのです!でも、創世記1:1のほうが、人間のどんな理論よりもすばらしく聞こえます。主は私たちとコミュニケーションを持ちたいと願われ、また私たちの失われた状態を見られた主は、私たちを救いたいと願われたからです。

 

(ヘブル2:7)「『あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、』」

 

 詩篇8篇は、人間が御使いたちよりも低く造られたことを極めてはっきりさせています。御使いたちよりも高く優れたお方が、自ら進んで彼らよりも低くされたのです。主は、御使いにではなく人になられたのです!神さまは、彼にもほかのどの御使いにも、宇宙を支配させるおつもりはありません。でも、神さまは人間を、支配する者としてお造りになったのです。詩篇8篇には、「彼に栄光と誉れの冠を与え、あなたの御手のわざを治めさせるために、彼をその上に置かれました。」(訳注:「あなたの御手のわざを治めさせるために、彼をその上に置かれました。」の一文は日本語訳にはありません。)と書かれています。人間は、エデンの園で神さまに従わなかったときにその支配権を失いましたが、キリストはその支配権を回復されたのです。

 

(ヘブル2:8)「『万物をその足の下に従わせられました。』万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」

 

 今日、主はこれを支配してはおられません。主イエスがこの地上を支配されるときには、病院も、牢屋も必要ありません。犯罪も、貧困もありません。主がこの地上を支配されるとき、千年のパラダイスになるのです。

 

(ヘブル2:9)「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

 

 主イエスがおこなわれたことのゆえに、私たちは主を見つめます。私たちはイエスを見ているのです。私たちは信仰をもって、信頼して、驚き、畏敬して、礼拝をもって主を見つめるのです。神さまの御霊は、あなたが主を“見る”ことができるように、あなたの眼から覆いを取りのけてくださったでしょうか?主がこの地上におられた短い時間(33年間です)、主は御使いたちよりも低くされたのです。主がこの地上に来られ、あなたと私のために十字架で死なれたゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになったのです。死の本質を経験された、つまり、死の最も深いところまでを経験されたという意味です。主は、死の杯を飲まれました。死の苦い杯が主のくちびるに押し付けられ、主はその最後の一滴までも飲み干されました。あなたや私のために、主はそうされたのです。

 

(ヘブル2:10)「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」

 

 主が、良いお手本を示したということでもありません。キリストの屈辱は、ふたつのことを達成しました。

(1)キリストの屈辱は、キリストのご人格に栄光と誉れをもたらしました。

(2)人間の救いを可能にすることで、人間に救いをもたらしました。

 

 キリストは、人間性を天国に持ち帰られました。栄光のうちに人の子である方がそこにおられるだけでなく、この人の子である方のうちに、前にはなかった栄光があるようになりました。このことは、主にふさわしいことでした。主のご人格と、多くの人々をこのようにして栄光に導くご目的に、調和し一致していることだったのです。

 

 「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」と書かれています。主がすべての物をお造りになりました。そして、造られた物は“主の”ためのものでした。もしあなたが、この宇宙がなぜ存在するかを知りたいなら、そのわけは“イエスさま”が望まれたからです。それが“主の”みこころだったのです。それがこの宇宙の起源です。宇宙は、キリストの頭の中で始まったのです。

 

 「神が多くの子たちを栄光に導くのに、」というのが神さまの現在の目的です。神さまは、ご自分の王をご自分の聖なるシオンの丘に据えるという将来の目的も持っておられます。(詩篇2篇参照)神さまは、そのご計画に向かって進んでおられますが、今現在は、ご自分の御名のために人々を呼び出しておられます。神さまは、多くの子たちを栄光に導いておられるのです。

 

 主は、苦しみを通して全うされました。主は神さまの御子であり、主が神さまご自身でありましたが、主の完璧な人生は私たちを救うことはありません。ただ、主の十字架の上での死が私たちを救います。主は全うされました。主は、十字架上で死なれることによって完成に達されたのです。

 

(ヘブル2:11)「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」

 

 聖霊との関連で聖化ということばが使われるとき、このことばは私たちのうちで働く神さまの働きに関係があり、私たちをこの地上において神さまが望まれるような代表者にされることを意味しているのです。“主”が私たちを神さまの家族の中に入れてくださったのです。

 

(ヘブル2:12)「『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』」

 

 この節は、偉大な十字架の詩篇である詩篇22篇からの引用です。私は、この節はヘブル人の兄弟たちに限ることができると思っています。なぜなら、これはユダヤ人たちに対して書かれたものであるからです。

 

(ヘブル2:13)「またさらに、『わたしは彼に信頼する。』またさらに、『見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。』と言われます。」

 

 さてここに、旧約聖書、イザヤ書8:17-18の引用が書かれています。ヘブル人への手紙2:13では、神さまの聖霊がイザヤ書の言及を、これが主イエス・キリストを指していると解釈しています。イエスさまが「わたしの兄弟たち」と言われたこの特別なとき、主はご自分の弟子たちを指してそのように言われました。そしてもちろん彼らは、みんなユダヤ人でした。(ヨハネ20:17) 

 

(ヘブル2:14)「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、」

 

 このことばは、主の受肉を強調しています。主は、ご自分の死によって私たちをお救いになるのであって、主の誕生や人生によって私たちをお救いになるのではありません。主の死が、救いと霊的な永遠の死からの解放を私たちにもたらしたのです。

 

(ヘブル2:15)「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 

 「神の律法は、罪の代価として死を要求したし、今も要求している。(ローマ6:23)『罪から来る報酬は死です。』と書かれているとおりである。まず第一に、サタンが人間に罪を犯させる者であり、彼は強奪者ではあるが、彼はある意味で公正に、罪人は死ななければならないと主張することができる。サタンは、すべての罪人は、罪の代価を支払わなければならないという要求をする力と権威を持っていたのである。そしてこのために、すべての人間はすべてが罪人であるので、死を恐れ、束縛を受けやすく、罪のゆえにその束縛に仕え、従ってサタンに仕えるのである。

 

(ヘブル2:16)「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」

 

 キリストが天国をあとにしてこの地上に来られたとき、主は御使いたちを通り過ぎ、堕落した人間のところに来られたのです。主は、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

 

(ヘブル2:17)「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」

 

 主イエスは、人間のかたちをとってこの地上に来られました。ピリピ人への手紙2:7には、次のように書かれています。罪が人間に与えている影響は、どこに見られますか?貧しさの中、誘惑の中、そして暴力と不当な死の中に見られるのです。その中に、罪が現われています。

 

 主イエスは地上に来られ、人間のからだを持たれました。主はあなたや私に同情することがおできになります。あなたがだれであろうとどこにいようと、主は“あなたを”知っておられ、あなたを理解しておられます。それは、主が神さまだからというだけでなく、主が人になられたからなのです。主は、あなたや私が今日経験していることを、まったくそのとおりに知っておられるのです。

 

 イエス・キリストは、本物の人間になられました。そして、そのような(極度に貧しい)背景から出て来られたのです。キリストは、“人々の罪”のためにあわれみの座をお造りになりました。あなたが神さまのあわれみを受けることができる場所は、ほかにはありません。

 

(ヘブル2:18)「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

 

 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれた」のです。主イエスは、40日の間試みを受けられただけでなく、(それは、特別な方法での試みでした)ご自分の生涯の間ずっと、試みを受けられました。

 

 私たちが、何か間違ったことをするように誘惑されたと言うとき、実際には、私たちに間違ったことをする“チャンス”があって、私たちはそのことをしたかったのだということを意味しています。さて、このチャンスこそが試みでしたが、間違ったことをしたいという欲望が罪であり、罪深い“欲望”自体が罪なのです。主イエスには、決してそのような罪深い欲望はありませんでした。主は罪人ではありませんでした。

 

 お分かりのように、イエスさまは、ご自分が主張しているとおりのお方であることを“証明”するために、試みを受けられたのです。それがとても重要です。試みは、主が肉となられた神さまであることを証明しました。主は、ご自分のご性質のゆえに、罪を犯すことはおできになりません。

 

 もし、このヘブル人への書簡の学びで、ひとつだけ達成したいことがあるとしたら、それはあなたや私には大祭司なるお方がおられるということに、私たちが十分に気づくということです。主は神さまの右手におられ、最も良いことは、主がいつでも私たちに答えてくださるということです。

 

※このブログは マギー博士の残したいのちのみことばメッセージを引用しています。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ヘブル人への手紙」をお読みください。

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

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