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  -  エペソ人への手紙6章  ~ 教会は兵士である。 ~ 兵士の人間関係。兵士の敵。兵士の防備。兵士の良い見本―キリストの良い兵士であるパウロ。祝祷。-

 

 さてこの章では、イエス・キリストのよき兵士になるべきである、ということです。兵士の訓練は、子どものころの家庭から始まるのです。兵士が適切に戦い、敵に対して勝利を得るためには、訓練は必須なのです。

 

 兵士としての訓練は、その人が子どものとき、家庭で始められなければなりません。教会でも、日曜学校でもなく、家庭で、です。その最初のレッスンを理解できない子どもはすべて、ハンデをつけられます。今日の若者たちと、一部の年寄りの大きな問題は、彼らが家庭で適切に訓練されていないことにあります。適切な訓練とは、しつけのことです。

 

(エペソ6:1)「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」

 

 兵士が最初に学ばなければならないレッスンは、権威の座にある人々への従順です。兵士は命令に従わなければなりません。この基礎的な訓練は、家庭で学ぶものです。兵士が従うことを学んだあと、彼はほかの人々に命令をくだす、将校の階級に出世する立場になります。どのように命令をするかを知ることは、おもにその兵士がどのように従うことを学んだかにかかっています。この基本的な訓練は、家庭での親子関係の中に、そして、主人としもべの関係の中に見られます。

 

 クリスチャン生活の勝利は、家庭の中で、そして職場で勝ち取られます。クリスチャンの両親には、自分たちの子どもたちを主のものである、と主張する特権があります。私たちみんながそうするべきだ、と私は思います。片親だけが信者であるところでも、その人は自分の子どもたちは神さまのものである、と主張することができます。妻は従う(submit)のです。妻は、夫と同等の立場を占めています。そして従うことは、単にかしらの問題です。ここで子どもたちは、しもべが従うように従うべきです。5節には、同じことばが使われています。

 

(エペソ6:2-3)「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」

 

 父と母とを敬うことには、それを守るものに長生きが約束されています。

 

(出エジプト20:12)「あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 

聖書の中でサムソンとアブシャロムは、この戒めを守らなかった少年たちのふたつの例であり、彼らの人生は短いものでした。

 

(エペソ6:4)「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

 

 子どもに聖書の真理を教え、そしてその子の前でその真理を生きることは、両親の務めです。あなたの子どもたちを怒らせてはいけません。信者として、あなたは家庭でも信者らしく生きるべきです。

 

(箴言29:17)「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。」

 

 クリスチャン・ホームの子どもは、キリストとの生き生きとした関係を持つことができるようになるため、そしてこの世と接触するようになったときに、強くなるために、クリスチャンとしての指導を与えられるべきです。ひとりひとりの親が、自分の子どもをキリストの救いの知識に導く特権を持つべきなのです。あなたの第一の責任は、あなた自身の子どもです。その子に集中するほうが良いのです。神さまのみことばは、神さまが私たちに自分の子どもたちのための責任を与えられたということをはっきりさせています。

 

(エペソ6:5-8)「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」

 

 しもべたち(文字通りには奴隷)は、肉による主人(masters according to the flesh)つまりこの地上の主人に従順であるべきです。「人のごきげんとり」をするべきではありません。言い換えれば、ボスにおべっかを使うべきではないのです。キリストのしもべとして奉仕をなし、心から神さまのみこころを行なうのです。「真心から」とは、どんな二心のしみもあってはならないことを意味します。全く、偽善があってはなりません。

 

 雇用主がそこにいるときには彼のブーツをなめ(訳注:おべっかをつかうこと)、いないときには中傷する、などということがあってはなりません。クリスチャンの生活には、絶対にそのような行動があってはならないのです。しもべの従順さは、「キリストに従うよう」であるべきです。このことは、奴隷ができるだけ働かず、自分の主人が見ているときにだけ働く、という堕落の最低の地位から引き上げられたことを示しています。

 

 「善意をもって仕えなさい」とは、彼らの態度が、自分たちのクリスチャンとしての奉仕を反映するべきであることを示しています。奴隷であっても主人であっても、雇用主であっても労働者であっても、その人の生活の動機がキリストを喜ばせることであるというところに到達したとき、資本家と労働者によって持ち出されたハードルは、簡単に越えることができます。私たちは、キリストの奴隷になるべきであって、そのほかの誰に対しても、何に対しても奴隷になってはなりません。もしその人が神さまの子どもであるなら、その人は「私は主キリストに仕えている」と言うことができます。

 

(エペソ6:9)「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」

 

 キリストの御前では、主人もしもべも同じ立場です。キリストにあって、兄弟なのです。資本家も労働者も信者であるとき、彼らは兄弟なのです。

 

(エペソ6:10)「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」

 

 私たちが世に勝つ唯一の方法は、私たちの信仰によってと、神さまを信頼することによってです。神さまの子どもは、この世のことを愛するべきではありません。悪魔はそのようにして私たちに接近します。悪魔はあざむく者で、悪魔は自分のしもべを光の御使いに見えるようにするのです。

 

(ヨシュア9:4-11)「彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。『私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。』イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。『たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。』すると、彼らはヨシュアに言った。『私たちはあなたのしもべです。』しかしヨシュアは彼らに言った。『あなたがたはだれだ。どこから来たのか。』彼らは言った。『しもべどもは、あなたの神、【主】の名を聞いて、非常に
遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。それで、私たちの長老たちや、私たちの国の住民はみな、私たちに言いました。「あなたがたは、旅のための食料を手に持って、彼らに会いに出かけよ。そして彼らに、私たちはあなたがたのしもべです。それで、今、私たちと盟約を結んでくださいと言え。」』」

 

 悪魔は、できる限りの手立てを使ってあなたをだまします。私たちは自分では悪魔に打ち勝つことは“できません”。あなたも私も、悪魔に匹敵しません。私たちは、悪魔と戦いなさいと命令すらされていません。神さまが私たちのために戦ってくださると書かれています。「最後に(結論として)、主にあって、そして、主の力のうちに強められなさい。悪魔の策略に立ち向かえるように、神さまの武具を身につけなさい。私たちの組み討ちは血肉に対するものではなく、権力、力、この暗やみの世の支配者、天の(場所とものごとの)中にいる大ぜいの悪霊たちに対するものだからです。」 

 

(エペソ6:11)「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」

 

 クリスチャンが戦うべき敵は、血肉では“ありません”。敵は霊的なものであり、戦いも霊的なものです。だからこそ私たちには霊的な力が必要なのです。信者の肉は、戦うべき敵ではない、ということに注目するのは良いことです。信者は、肉を死んだものと見なし、神さまに“明け渡す”べきなのです。サタンの策略と猛攻撃に耐えることができるのは、神さまの武具だけです。

 

 この世で霊的な力が働き、悪の力が教会に対抗して働いています。この力は、信者に対抗し、神さまに対抗し、キリストに対抗して働いているのです。本当に起こっているのです。自分だけでは何もできないのです。打ち勝たなければならない霊的な敵がいる、という事実は、ダニエル書の10章によく説明されています。ダニエルは祈っていましたが、何の答えも得ませんでした。彼は3週間も祈っていたのです。

 

(ダニエル10:13)「ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、」

 

 主権とは、国々を監督している悪霊たちのことです。彼らは、将軍の階級に相当します。力とは、人間にとりつこうとする、一兵卒の悪霊たちです。暗やみの世界の支配者たちとは、サタンのこの世での仕事の責任を持っている悪霊たちです。天にいるもろもろの悪霊とは、宗教の責任を持っている、天のところにいる悪霊たちです。サタンは、よく組織されたグループを持っており、サタンの組織が、今現在、この世を操作しているのです。悲嘆、心痛、苦しみ、人生の悲劇は、背景の中のサタンの働きです。サタンこそ、今日の世界中の大きな問題の原因なのです。

 

 敵の居場所は分かりました。敵は霊的なものです。この悪魔的な軍隊を統率しているのはサタンです。さて、私たちは、どこで戦いが行なわれているかを認識する必要があります。キリストにある兄弟たちの間の正しい関係が保たれていなければなりません。批判と、苦々しさと、憎しみの霊のあるところでは、神さまの御霊は働かれることができません。私たちは、霊的な戦いが今日も続いており、人々は神さまのみことばにしっかりと立つべきであるということに、気づいていないようです。

 

(エペソ6:13)「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」

 

 この箇所全体の鍵は、“立つ”ということばです。聖書が私たちを戦士として語るとき、私たちは立っているべきだ、と言うのです。とても正直に言うと、私は戦うよりも、立っていることをうんとやる方が良いですね。福音が語られるところ、どこででも、戦いは続いています。それが今日の戦線です。敵はそこで働いているのです。あなたは自分の牧師のために、土曜日の夜に祈りますか?牧師を批判するのではなく、彼のために“祈りなさい”。彼はあなたの祈りを必要としています。

 

 悪魔がもう十分な反対をしています。あなたは、神さまのみことばを宣べ伝えている人を十字架につけようとする群衆に加わる必要はありません。イスラエルのために、アロンとフルがモーセの手を高くあげて支えていたように、あなたも自分の牧師の手を支えるべきです。私は、自分たちと一緒に立ってくれる会衆を必要としている牧師たちに心から同情します。

 

(エペソ6:14-15)「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。」

 

 この当時の衣服は、腰に締める帯によって、兵士の制服のすべての部分が固定されていました。帯は不可欠でした。正直言うと、帯をなくしてしまったら、すべての物をなくしてしまうのです。衣服ははだけ、ズボンは落っこちてしまいます。真理とは何でしょう?神さまのみことばです。私たちはこの地上で歩むために、キリストを身につけるべきなのです。自己正義のきたならしいぼろは、胸当てとして役に立たないものですが、でも私は、その下には神さまと正しい関係にある心と良心とがあるはずだ、と確かに思います。キリストこそ、この世でのあなたの土台です。すでに据えられているイエス・キリストという土台のほかには、だれもほかのものを据えることはできません。

 

(I コリント3:11)「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」

 

(エペソ6:16-18)「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

 

 悪い者が放つ火矢は、素早く、猛烈に飛んで来ていますし、これからも飛んで来ます。火矢を打ち落とすことができるのは、信仰の大盾だけです。「救いのかぶとをかぶり」と書かれています。かぶとは頭を守ります。そして、神さまは確かに、人間の理性に訴えかけられます。神さまは心にも訴えられますが、同時に、知性にも訴えられることを認めます。ここまで言及されてきた武具は、すべて守りのためのものでした。そのことに気づかれましたか?すべてのものは、個人の前側につけるためのものです。後ろ側の守りはありません。

 

 さて、私たちは、攻撃のために、ふたつの武器をもっています。最初のものは、御霊の剣と呼ばれる、神さまのみことばです。今日、私たちの口から、その鋭い剣が出ている必要があるのです。神さまのみことばは、力強い、攻撃の武器です。あなたも私も、その剣を使うべきです。聖霊によって祈るというのは、神さまに買い物リストを差し上げることではありません。あなたと私が、敵を認識し、霊的な資源のために神さまを捕まえることです。私たちは、霊的なもののために、そして私たちが神さまのすべての満ち満ちたさまで満たしていただくように、神さまを捕まえます。ここでパウロは、祈りと願いを区別しています。祈りは一般的です。願いは 特殊です。すべて効果のある祈りは、御霊によって祈られなければなりません。

 

(エペソ6:19-20)「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

 

 パウロはここまで霊的な戦いについて書いてきました。そして今、彼が書いていた、まさにそのときに、敵の猛攻撃を経験していたことが分かります。パウロは、自分が大胆に福音を語れるように祈ってくれるように求めます。私たちにも、同じ祈りが必要です。私たちには、神さまのみことばを宣言する、大胆さが必要なのです。

 

(エペソ6:21-22)「あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。」

 

 テキコは、この書簡をエペソに届けるだけでなく、使徒パウロの状況と見通しについての、個人的な説明をしました。テキコは、エペソ人たちが使徒パウロの状況に関して持っていたかもしれない、どんな恐れも鎮めることでしょう。初代教会で示された兄弟愛は、パウロのすべての書簡の根底に流れています。パウロは、兄弟たちのことを本当に気にかけていました。

 

(エペソ6:23-24)「どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」

 

 パウロは、キリストの良い兵士がどのようなものでなければならないか、どんな報酬が彼を待っているかを考慮しました。彼は、二重の祝祷をもって閉じます。福音の偉大なことばのほとんどが、ここに含まれています。平安、愛、信仰、恵みです。この平安は、すべての理解を超えた、神さまの平安です。

 

 23節の「愛」は、ほかの信者のための愛を意味しています。愛は御霊の実です。24節の「愛」は、主イエス・キリストに対する信者の愛です。「信仰」は、活動的な愛を生み出す、キリストにある信仰を意味します。これらの信仰は、父なる神さまと、主イエス・キリストから流れ出ています。また、「恵み」はこの書簡の主題でもあります。

 

(エペソ2:7-8)「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

 

 今、「恵み」ということばが、書簡を締めくくります。私たちを救って、今日私たちを保ってくださっているのは、神さまの恵みなのですから、このことばをもって書簡が締めくくられるのは、ふさわしいことです。

 

※このブログは マギー博士の残したいのちのみことばメッセージを引用しています。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「エペソ人への手紙」をお読みください。

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

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