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  -  エペソ人への手紙5章  教会は花嫁となる。教会の婚約。教会の経験。教会の期待。 -

 

 この地上では私たちは将来の花嫁として歩むべきです。私たちは今、婚約しているのです。パウロは、コリント人たちに、次のように書き送りました。

 

(II コリント11:2)「・・・私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」 

 

 キリストと婚約した私たちが、どのようにしてこの世が生きているように生きることができるのでしょう?私たちはいつの日か、キリストの前に出されます。私たちは主と永遠に共に住むのです。そして、この方は私たちの主、私たちの主人となるのです。

 

(エペソ5:1-2)「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」

 

 彼らが引き上げられた愛の水準は、キリストが私たちのための供え物としてご自身を与えるほどに、私たちを愛されたときに示された愛です。明快に十字架を指しています。このことは、キリストの死を、単なる公的な犯罪人の処刑以上のものにしています。十字架は、神さまの小羊が全焼のいけにえとしてささげられた、真鍮の祭壇でした。そのいけにえが、世の罪を取り除くのです。このことは、旧約聖書の中で、神さまの命令によってささげられたすべてのいけにえとキリストを同一化します。すべてのいけにえは、主を指し示していました。キリストが、十字架上で身代わりに、私たちの代理の死をとげられたゆえに、信者はそのような高められた水準の愛を達成するべきなのです。

 

(エペソ5:3-4)「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」

 

 ここで説明されている罪は、未信者の間ではごく普通のことです。今日この世で一般的な罪です。これらすべては、卑俗な不道徳と関係があります。パウロは、神さまの子どもは習慣的にこのようなものに関わることはできないと言っているのです。

 

 「神にあなたの心のうちのすべてをお話せよ。喜びも痛みも、親しい友に対して自分の心の重荷をおろすように。神があなたを慰めてくださるように、自分の困難をお話しせよ。神があなたを落ち着かせてくださるように、自分の喜びをお話しせよ。神がそれらを純粋なものにしてくださるように、自分の切望をお話しせよ。神があなたがそれらを克服するのを助けてくださるように、自分の嫌いなものをお話しせよ。神があなたをそれらから守ってくださるように、自分の受ける誘惑をお話しせよ。神がいやしてくださるように、自分の心の傷をお見せせよ。良いものへの無関心と、悪への堕落した嗜好と、自分の移り気を、そのままに横たえよ。自己愛が自分をほかの人に対してどれほど不公平なものにするか、虚栄が自分をどれほど誠意のない者にしようとするか、プライドがほかの人に対してと同じように、自分自身に対してもあなたをどれほど偽るか、神にお話しせよ。」

 

神さまとのそのように親しい、遠慮のない意志の疎通ができている人は、何と祝福されていることでしょう。すべての信者は、神さまのところに行って、本当に自分の心にあることを神さまにお話しする大きな必要があります。「下品な冗談」は、良い、きれいなユーモアではありません。下品な冗談とは、好色や不道徳を軽々しく扱うという意味です。汚らわしい話しをすることです。感謝することを習慣にするのは、私たちクリスチャンにとって良いことです。

 

(エペソ5:5)「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」

 

 これらの罪を実行している新生していない人は、キリストと神さまの御国に、何の分け前も持たないことが、明らかに分かります。

 

(エペソ5:6-7)「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」

 

 これらの罪のせいで、新生していない人の上に神さまの怒りが注がれるという事実のゆえに、当然、神さまの子どもがそれらの罪に加わるとき、必ず神さまの不快とさばきを招くのです。

 

(エペソ5:8-10)「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」

 

 彼らはただ暗やみの“中”にいただけでなく、かれら“自身が”暗やみでした。私たちは、新生していない人を暗やみの中にいる、と話しますが、それよりも悪いのです。「あらゆる善意」は親切を意味します。「正義」は道徳的な正直さを意味します。そして「真実」はおもに、誠実さと純粋さとを指しています。信者は、自分が神さまのみこころのうちにいるかどうか、だから神さまに喜んでいただいているか、このようにして自分の人生を証明する、あるいはテストしてみるべきです。

 

 I ヨハネの手紙1:7には、神さまが光の中におられるように、光の中を歩むことが書かれていることを思い出されるでしょう。そしてこの歩みは、日曜日だけのことではなく、週に7日私たちのあゆみであるべきなのです。そして、その7日間毎日の24時間、毎時間の60分がそうであるべきです。

 

(エペソ5:11-13)「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」

 

 私たちは「実を結ばない暗やみのわざに仲間入り」するべきではありません。物理的な世界で、光と暗やみとが混ざることができないように、神さまの子どもは、「暗やみのわざ」と一緒には進んで行けません。彼らが密かに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。私たちは、それらについて口にすることさえするべきではありません。むしろ私たちは、「非難する」あるいは有罪と宣言するべきです。あなたは光になるべきです。光はいつでも暗やみに影響を与えます。

 

(エペソ5:14)「明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」

 

 ここでパウロが意味しているのは、霊的な無感覚に陥っている信者たちは眼を覚まさなければならない、ということだと思います。

 

(エペソ5:15-17)「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」

 

 「賢くない人としてではなく、賢い人として、時間を買占め、どのように歩むかに注意しなさい。なぜなら、時代は邪悪だからです。主のみこころが何であるかを知るために、無分別(愚か)になるのではなく、分別のある(用心深い)者となりなさい。」これは、信者の歩みに関する、もうひとつの命令です。信者は賢く歩むべきです。

 

 信者の歩みは、現代の緊急性と、神さまのために生きることの重要性を明らかにするべきです。信者の歩みの目的全体は、神さまのみこころのうちに留まることです。この世での信者の歩みは、自分がキリストに属していることを実践します。クリスチャンは、訊かれないでも神さまの子どもだと分かるように歩むべきなのです。私たちはみんな、自分たちがどのように歩むかに十分に気をつける必要があります。

 

(エペソ5:18-19)「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

 

 「酒に酔わされないようにしなさい。その中には放蕩があります。かえって御霊に満たされなさい。詩篇と賛美歌と霊的な歌とをもって互いに語り、心の中で主に向かって歌い、メロディーを奏でなさい。」今日人々が、何かを必要としているというのは本当です。彼らはその必要を満たすために、強いアルコールに頼ります。もしその人たちが神さまの子どもでないのなら、彼らにはそれ以外の資源も手段もありません。でも、神さまの子どもは、聖霊に満たされるべきです。聖霊に満たされることが、信者の“経験”となるべきなのです。

 

 聖霊に満たされる、とはどういう意味でしょうか?酒を飲んでいる人にその比喩を見ることができます。だからこそ、パウロはここでそれを使っているのです。酒を飲んでいる人は、酒に支配されます。その人が酔っ払っているかどうかは見れば分かります。それと対照的に、信者を支配する方は、聖霊でなければなりません。その必要を満たすのは、神さまに酔うことです。これは、極端な感情主義ではなく、生きることと神さまのために何かを成し遂げることのために原動力を供給するものなのです。私たちが聖霊に満たされるとき、私たちが聖霊によって“支配される”ことを意味します。

 

 信者の歩みと、その人が御霊に満たされることは、密接に関係しています。パウロは、信者は用心深く、そして「御霊に満たされて」歩むべきだと言っています。これらは、信者に与えられた命令です。この満たしとは、信者の人生が力と活動のために絶えず新しくされることで、ここでは現在形を使うことで表わされています。御霊に満たされた信者は、賢く歩むだけでなく、クリスチャンとしての性質が御霊の実によって証明されています。

 

(ガラテヤ5:22-23)「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

 

(I コリント12:13)「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

 

 私たちは自分で努力して、そのようにしたのでしょうか?いいえ、違います。イエス・キリストにある私たちの信仰によってそうなったのです。聖霊は私たちを新生させ、私たちのうちに住まわれます。聖霊は私たちに証印を押され、私たちにバプテスマを授けて信者のからだの中に、入れてくださるのです。でも、キリストに仕えるために、信者には御霊の満たしが必要です。御霊に満たされることは、ガソリンスタンドに行って、「満タンね」と言うのと同じように、単純なことである、と私は思います。

 

 朝、主と共に一日を始めるとき、私は言います。「主よ。私は、今日を御霊のうちに歩みたいのです。私ひとりではそんなことはできません。あなたの御力が必要です。あなたの助けが必要なのです。」私たち信者は、一日を聖霊の満たしを求めることで始める必要があります。信者にとって聖霊の満たしは、必要不可欠です。御霊に満たされたとき、あなたは神さまのために何かをするのです。あなたは御霊のうちを歩みます。でも、だからと言って、明日にも十分だ、ということではありません。明日のためには、また満たしが必要なのです。ガソリンタンクは、また満タンにする必要があるのです。

 

 ある人たちが神さまにとても力強く用いられ、そして次の日にはあまりにも自分が空っぽに感じるのはこのためです。私はそのように感じたことがありますし、あなたもそうだと思います。私たちには、新鮮な聖霊の満たしが必要なのです。新鮮な聖霊の満たしは、私たちが御霊のうちを歩くことができるようにしてくれます。つまずき、倒れることもあるかも知れません。私の孫は、歩くことを学んでいる最中で、今、おでこと鼻にあざをこしらえています。それでも彼は立ち上がってまたチャレンジします。いつの日か彼は上手く歩けるようになることでしょう。 神さまは、あなたと私に、御霊のうちを歩むことを学んで欲しいと願っておられるのです。私たちが御霊に満たされることを願っておられます。

 

 さて、聖霊に満たされることの証拠のひとつはなんでしょう?「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美」することです。神さまの御霊が、互いに“語り”と言われて、良かったです。もし御霊が“歌い”と言われていたなら、私は仲間はずれになってしまうところでした。「詩」とは、詩篇のことをさしていると思います。おそらく、すべての詩篇は、音楽にのせられていたことでしょうから。「賛美」は、神さまに栄光を帰するために、人間によって作られたものです。賛美はとても高い水準にありました。「霊の歌」は、詩篇や賛美ほど正式なものではありませんでした。おそらく、歌いながらその場で作られたものもあったことでしょう。その場で作られた歌は、御霊の満たしのあらわれです。なぜなら、御霊は信者の人生に喜びをもたらされるからです。主の喜びで輝くことが出来るように、彼らには、聖霊によって満たされる必要があるのです。

 

(ヨハネ15:11)「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

 

この喜びの満たしは、私たちの父なる神さまとイエス・キリストとの交わりを通してのものであるべきです。

 

(I ヨハネ1:3-4)「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」

 

私たちは、教会で、良い時間を過ごし、楽しむべきなのです。ばかばかしい期間という意味ではなく、主の喜びがそこにあるべきです。そのような種類の喜びは、聖霊の満たしによって来るものです。

 

(エペソ5:20)「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」

 

 御霊に満たされていることのもうひとつの証拠は、感謝の態度です。詩篇の中で、とても多くの感謝をささげることと神さまへの賛美に注目しました。そして、その感謝と賛美とは、高いレベルなのです。今日、信者の中には十分な感謝と賛美がありません。私たちみんなが、「主を賛美せよ。すばらしい賜物のゆえに、神に感謝せよ。」と言わなければなりません。あなたは心からそのように言うことができますか?心から出たのでなければ、何の役にも立ちません。

 

 御霊の満たしは、私たちが誠実に神さまに“すべて”のことを感謝することができるように、感謝に満ちた人生を生み出します。あなたが彼らを愛していることを“示し”てください。愛と喜びと感謝があなたの人生にあるように、御霊に満たされてください。御霊に満たされることは、とても実際的です。タイヤが道に出会うところ(訳注:実践する場所、という意味)です。神さまのところに行って、私たちは空っぽです。神さまのために生きることができるように、私たちには聖霊の満たしが必要です、とお話しする必要があります。

 

 私たち自身では不可能でも、神さまが私たちを通して神さまのために生きることができるようにしてくださる、ということを理解する必要があります。私たちに任されているたったひとつのことは、聖霊に“満たされなさい”という神さまの命令に従うことです。聖霊に関連して信者に与えられているのは、この命令ひとつだけです。

 

(エペソ5:21)「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 

 私たちは確かに命令は受けますが、それは、私たちの救いの大尉である方からの命令です。あなたと私は、大将である方のもとにありますが、私たちの関係は軍隊ではなく、愛を基準としています。主は言われました。

 

(ヨハネ14:15)「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

 

 私は、ここには二者択一があると思います。「もしあなたがたがわたしを愛さないなら、戒めのことは忘れなさい。」さて、ここには、あなたと私が「キリストを恐れ尊んで、互いに従」うべきであると書かれています。それは、私たちよりも上位の人間の前で敬礼してひれ伏さなければならない、という意味ではありません。キリストを恐れ尊んで、お互いに謙遜に歩むべきである、ということを意味します。

 

 牧師、教会の役員、教会のメンバー、私たちすべては、キリストを恐れ尊んで従うべきなのです。「私のやり方」という主張にはなりえません。誰ひとり、次のように言うことのできる人はいません。「私は自分の好きなようにやる、ということを知っておいてください。もし、このようにしたい、と思うなら、私はこのようにします。」そのような態度は、御霊に満たされた信者のしるしではありません。キリストを恐れ尊んで、互いに従うのが、御霊に満たされていることの、もうひとつのしるしなのです。

 

(エペソ5:22-24)「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」

 

 妻は彼に、愛の関係の中で、信者がキリストに応答するように応答するべきなのです。男性は、「愛しているよ。」と言うべきであり、彼が、プロポーズをする側です。彼女は「ハイ」と言う側なのです。彼が「愛しているよ。」と言うまでは、「愛しているわ。」と言うことを要求される女性はひとりもいないのです。男性が、自分の妻は冷たい、と言うとき、それは彼女が冷たい夫を持っているからなのです。彼が、そうあるべきであるような夫ではないということです。働きかけるのは、彼女の仕事ではありません。彼女の役割は、愛をもって優しく従うことです。

 

(エペソ5:25)[夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。]

 

 神さまは女性に、自分を愛さない男性、自分のためにキリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように愛さない男性に従うようにとは、一度も求めておられません。ああ、これは、クリスチャンの高い水準の愛なのです。本当の愛はキリストと教会の間の関係の高い水準に引き上げられたからです。ほかにそのようなものは何ひとつないのです。

 

(エペソ5:26)「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」

 

 神さまのみことばは、汚れのしみを取り去るだけでなく、あなたの人生でそれ以上のしみを受けることがないようにしてくださるのです。

 

(エペソ5:27)「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

 

 黙示録を勉強するときに、夫のために飾られた花嫁として、教会がキリストの前に立たされるのを見ます。でも、結婚式のその日には、彼女たちは美しいのです。でも、結婚式のその日には、彼女たちは美しいのです。この節は、主はひとりひとりの信者を洗い、ひとりひとりをかの偉大なできごとのために備えておられることを意味しています。将来、教会は、すべての罪を取り除かれた輝く花嫁として、主の御前に立たされます。そのとき教会は、聖なるもの、非難するところのないものとなるのです。

 

(エペソ5:28-32)「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

 

 夫は自分の妻を愛するべきです。なぜなら、結婚関係が妻を彼自身の体の一部にするからです。まるで、教会がキリストのからだであり、キリストがからだのかしらであるようなものです。この基礎にのっとって、夫は妻のかしらなのです。人が自分自身の肉を憎むのは不自然です。そのように、夫は妻を愛するべきです。なぜなら、彼女は彼自身の肉だからです。(創世記2:24)

 

(エペソ5:33)「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」

 

 パウロは、ごく普通の、家庭でのおきまりのクリスチャン生活に読者を引き戻します。「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。」このことばは、妻が従うべきなのは、どのような種類の夫であるかを示します。家庭での夫と妻は、これから来る栄光の奥義を単純に説明するべきです。これはかなり理想主義的であるものの、とても実際的な適用です。パウロは、現実の領域に、ロマンティックなものをたずさえいれています。

 

※このブログは マギー博士の残したいのちのみことばメッセージを引用しています。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「エペソ人への手紙」をお読みください。

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

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