-  エペソ人への手紙4章:教会は新しい人である。新しい人の提示(Exhibition)。新しい人の抑制(Inhibition)。新しい人の禁止(Prohibition)。 -

 

※ イエスキリストの十字架と復活の福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 

さて、エペソ人への書簡の、新しい区分にやって来ました。後半の三つの章の主題は、“教会のふるまい”と“信者の使命”です。今私たちは、信者の人生の態度、つまり信者の地上での歩みのところに来たのです。この書簡の後半の部分では、私たちは教会のふるまい、教会の告白、そして教会の矛盾について考えます。

 

 教会は新しい人です。将来、教会は花嫁になります。そして同時に、教会はイエス・キリストの優秀な兵士でもあるのです。最初の3つの章において私たちは、新約聖書の中で、おそらく最高の霊的な地点である変貌山の頂上にいました。そのゆえに、私たちはこれらの章に多くの時間を費やしたのです。この後半の部分で、私たちは生活の平面に降りてきます。ここで、私たちは悪霊に取り付かれた世界と懐疑的な暴徒の群れに対面するのです。これこそ実際的な場所です。

 

 私たちは、山頂の真理を、靴皮に翻訳することができるでしょうか?(訳注:聖書の真理を、実際の生活に適用できるか、という意味と思われます)私たちは、神さまに喜ばれる方法で、この世で立ち上がり、歩みぬくことができるでしょうか?主は、私たちはこの世に“いる”が、この世の“もの”ではない、と言われました。さて、信者は「天にあるすべての霊的祝福」の中に入り、それを所有する特権があります。ところが、キリストにある探し出せない財宝(unsearchable riches)は、霊的なガイガー・カウンターである神さまのみことばによって探し出さなければならないのです。

 

 この地点まで、書簡には栄光に満ちた宣言が書かれていましたが、今、命令が出されます。そのように高められた場所に召された人々は、今、召しにつり合ったいのちの道へと指揮されるのです。私たちは、エペソ人への手紙の実際的な側にやって来ました。教会の地上でのふるまいです。もしあなたが信者になるのなら、神さまがあなたに何を求められるかを学ぶでしょう。そして、周りを見回したときに、聖徒たちが神さまの求められているとおりに生きているかどうかを知ることができるでしょう。

 

(エペソ4:1)「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」

 

 彼は、自分のキリストにある地位のせいで、囚人なのです。私たちは自分の召しに「ふさわしく」歩むべきです。キリストにある私たちの立場につりあった水準で歩むようにという召しです。「光」の中を歩む、とは、神さまのみことばの光の中を歩むことです。どれほどの時間を、あなたは神さまのみことばに本当に費やしているでしょうか?あなたの子どもたちは、あなたがどれだけの時間を聖書に費やしているかを知っています。同時に、あなたの隣人も、教会の人たちも知っています。もし私たちが神さまとの交わりのうちに歩みたいと願うなら、神さまのみことばの光の中を歩まなければなりません。

 

(エペソ4:2-3)「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 

 「謙遜」とは、低くされた理性のことです。謙遜は、プライドの逆を意味します。謙遜は、クリスチャンのすべての徳の中で、最も重要なものです。

 

(ピリピ2:3)「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

 

聖書は、柔和を、その代価に関わりなく神さまのみこころのために喜んで立ち上がり、それを実行すること、と呼んでいます。柔和は、神さまのみこころにひざをかがめることです。「寛容(longsuffering)を示し」とあります。寛容は、気が長いことです。御霊の実です。言い換えれば、私たちは 気短かでいるべきではない、ということです。それが寛容です。「愛をもって互いに忍び合い」とは、愛の精神で自分を抑制する、という意味です。

 

(コロサイ3:13)「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

 

聖霊だけが、一致をお造りになります。そして、私たちはそれを保つべきなのです。キリスト・イエスにあるすべての本当の信者は、ひとつのからだに属しています。そして私たちはキリストにあってひとつであることに気づかなければならないのです。主イエスは、私たちがひとつになるように、と祈られました。

 

(ヨハネ17:21)「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

 

さてパウロは、7つの一致を示します。

 

(エペソ4:4-6)「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」

 

1.「からだは一つ」とは、ペンテコステから携挙までの信者たちの総数のことです。

2.「御霊は一つ」とは、バプテスマによって信者をキリストのからだに入れられる、聖霊のことです。聖霊のお働きは、キリストにある信者をひとつにします。これこそ、信者が保つようにと教えられている一致です。

3.「召しのもたらした望みが一つ」とは、すべての信者の前に立てられた目標のことです。彼らは、この世から取り去られ、キリストの御前に連れて行かれます。これこそ、祝福された望みです。(テトス2:13参照)

 

(テトス2:13)「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

 

4.「主は一つ」とは、主イエス・キリストのことです。信者に対する主の主権が、教会の一致を実現させます。

5.「信仰は一つ」とは、使徒の教理と呼ばれる真理の集まり(the body of truth)を指しています。

 

(使徒2:42)「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 」

 

6.「バプテスマは一つ」とは、本当のバプテスマである、聖霊のバプテスマを指しています。7.「すべてのものの父なる神は一つ」とは、信者に対して、神さまが父であることを指しています。父なるお方はひとりしかおられませんから、神さまは未信者の父ではありません。人生はときどき、少し単調になりませんか?このすべてのことは、神さまのご計画とご目的のうちにあるのです。そうすると私は、頌栄か、ハレルヤ・コーラスでも歌いたい気分になります。

 

 諦めないでください。指揮者である方が来ようとしておられるのですから。主は私たちすべてを調和させてくださいます。教会は、この世にあって新しい人として歩むべきです。 この世に示されなければなりません。教会は外向型で、証しし、いのちを表すべきなのです。教会は、赤ん坊のままでいるべきではなく、成熟するべきです。そして神さまはご自分の子どもたちひとりひとりに、その中で成長するようにと恵みをくださっているのです。

 

(エペソ4:7)「 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」

 

 信者の集まりの中で特別な方法で機能することができるように、ひとりひとりの信者に、賜物が与えられています。

 

(I コリント12:7)「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」

 

このことは、信者の集まりであるからだを建て上げるという目的のために信者を通して何かを行なわれる賜物が、 神さまの御霊であることを意味しています。それは、信者の集まり全体の益のためです。あなたを霊的に進歩させるために賜物が与えられるのではないのです。

 

 賜物があなたに与えられるのは、あなたが信者の集まりの中で、教会の益となり、教会を祝福するように機能するためなのです。ところが、からだのひとつのメンバーが苦しむときには、からだ全体が苦しむのです。これは、もしあなたがからだの中で自分の賜物を働かせないのなら、あなたが私たち全員を調子っぱずれにしてしまうことを意味します。

 

(エペソ4:8)「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』」

 

 これは、詩篇68:18からの引用であることに気づかれるでしょう。詩篇には「人々から、みつぎを受けられました」と書かれているのです。旧約聖書からの間違った引用なのでしょうか?著者には自分自身が書いたことを変える権利があるが、ほかの誰にもその権利がない、ということを心に留めて置いてください。私たちの目の前にあるこの節では、聖霊がことばを変えられています。そして、聖霊は目的があってそうされているのです。

 

 詩篇の中では、主イエスが人々のためにみつぎを受けられたと書かれています。主は、すべての賜物を準備されました。そして主は地上に来られました。今、主はここにおられて、父のみもとに帰られたので、賜物を人々の間で分け与えておられるのです。主は、賜物を、聖霊を通して私たちに分け与えておられます。実際この箇所は、聖書がどれほど正確であるかを示しているのであって、間違った引用なのではありません。「高い所に上られたとき」とは、キリストの昇天を指しています。そのとき、主はふたつのことをされました。

 

(1)主は、捕虜を引き連れて行かれました。捕虜とは、死んだときにパラダイスに行った、旧約聖書の贖われた人々を指していると私は信じています。キリストは、昇天されたときに、この信者たちをパラダイスから、まさに神さまのご臨在の中に連れて行かれたのです。

(2)昇天されたとき、キリストはまた、人々に賜物を与えられました。これは、主が教会の中の、生きている信者たちに、彼らがこの世で証しとなるように、賜物を授与されたことを意味します。聖霊はひとりひとりをからだの中の特別な場所に置かれました。そして聖霊はそのときからずっと、新しい信者に同じことをして来られているのです。

 

(エペソ4:9-10)「──この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」

 

 この箇所の論理的な説明は、キリストが昇天されたのだから、主は必要なものをそのまえの時期に下されたに違いない、ということです。

 

(エペソ4:11-13)「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

 

 賜物をくださったのはたしかに主なのですが、この節では、主が人々にお与えになった賜物自体については触れていません。ここでパウロが言っているのは、キリストが特定の賜物を与えられた特定の人々を取られ、“その人々を”教会に与えられた、ということです。教会が完全に成長するために、これらの賜物のある人々が教会に与えられたのです。この世の中での教会の目的は何でしょう?教会を建てあげて成長することです。

 

 主の教会は、地上だけに存在するものではありません。教会の一部は、主と共に天国にいます。彼らは、神さまの御前にいる軍勢の中の一部なのです。別の意味で、彼らは今も私たちと共にいるのです。私たちは、エペソ人への書簡を今、学んでいるではありませんか。この書簡を書いたのはだれでしょう?使徒パウロです。そして彼は、キリストと共に天国にいますが、私たちとも共にいるのです。彼はからだの中にはいませんが、キリストと共にそこにいます。

 

 それでいて、彼は今も教会のメンバーであり、私たちにとっては今も使徒なのです。主は「また教師」も与えられました。この人々は群れを指導する人々でした。もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたも牧師と同じようにミニスターなのです。私の仕事は、ほかの人たちがミニストリーの働きをするために整えるように努力することなのです。資料を使ってください。

 

 私たちは、キリストのからだを建てあげるべきなのです。あなたに、とても率直にお話したいと思います。あなたの牧師に、すべてのことを期待しないでください。彼がそこにいるのは、あなたを訓練し、あなたがミニストリーの働きをし、教会が成熟するためなのです。すべての信者は、ミニストリーの働きができるように、神さまのみことばの訓練を受ける必要があります。

 

(エペソ4:14)「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」

 

 私たちは、抑制を持つべきです。泣いている赤ん坊の一団のように、走り回るべきではありません。様々な賜物を持った人たちを教会に与えられたキリストの目的は、信者を赤ん坊の状態から、成熟に至らせるためです。

 

(エペソ4:15-16)「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

 信者は、子どものままでいるべきではありません。彼らは「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」べきです。つまり、信者は真理を愛し、真理に生き、真理を語るべきです。キリストは真理であり、信者はすべてのものをキリストに向けて、自分の人生の小さな船を航行させなければなりません。キリストが信者のコンパスであり、磁極なのです。霊的なからだは、愛によって自分自身を新しくするのです。

 

(エペソ4:17-19)「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」

 

 私たちは、新しい人の“提示”と、新しい人の“抑制”を見てきました。今、新しい人の“禁止”にやって来ました。失われた人間は道徳的価値の概念を失ってしまっていることを意味します。現代助長されているのは、まさにこのことです。道徳的価値の概念の喪失です。キリストを抜きにしたすべての人類のすがたです。彼らはこの道徳的愚かさの状態を継続して、自分たちを、間違ったことをしているという感覚のない水準にまで引き下げるのです。

 

 今日、そのような人々が大ぜいいます。彼らは無関心です。結果的に、不道徳と好色な思いにさらに突進していきます。この悪循環が、もっと深い罪に入って行きたいという欲望につながります。あなたは、奔放な罪人になり得るのです。

 

(エペソ4:20-21)「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」

 

 もしあなたが主の御声を聞いたことがないのなら、あなたは主の羊ではありません。異邦人を彼らの古い性質から変えるものは何でしょう?彼らは何をするべきなのでしょうか?キリストに聞くことです。彼らは主に聞くべきです。主によって教えられるべきです。主の羊でない者たちは、主に聞きません。イエスさまのご生涯こそが信者のための模範なのです。

 

(エペソ4:22-24)「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

 

 私たちは、洋服を着替えるのと同じように、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着るべきなのです。それは、古くて汚い着物を脱ぎ捨てて、新しくてきれいな着物を着るようなものです。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ることは、自分の努力や、キリストのふるまいを真似することでできることではありません。信じる罪人の“ために”キリストの死によってすでに行なわれたのです。私たちは、自分で服を着ることのできない赤ん坊のようです。

 

 古い人はすでにキリストと共に十字架につけられたという真理のゆえに、私たちは聖霊の力のうちに古い人を脱ぎ捨てるべきなのです。これは、肉、つまり古い性質がこの人生の中で除去されるという意味ではありません。私たちは古い性質を片付けてしまうことはありませんが、古い性質の中に生きるべきではないのです。つまり私たちは、古い性質に私たちの人生を支配させるべきではない、ということです。

 

 私たちはその新しい性質、新しい人のうちに生きるべきなのです。このことは、ローマ人への手紙の偉大なメッセージの繰り返しです。この義がキリストに帰する義であり、すべてのことは、神さまの聖なるご性質に一致して行なわれるべきであることを示しています。私たちは義であると宣言され、キリストにあって天の者たちと共に座しているのですから、私たちのこの地上での歩みは、私たちの地位につりあっていなければなりません。

 

(エペソ4:25-27)「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」

 

 パウロは17節で始めた禁止事項に戻ります。信者は、もはや異邦人たちが歩むように歩むべきではない、と教えられています。これらの禁止命令は、書簡の最後まで通して続きます。「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」とは、すべての残りの部分を導く禁止命令です。古い人がキリストの十字架のうちに脱ぎ捨てられたとき、偽りを言う舌と偽りの心は、十字架に掛けられたのです。

 

 イエスさまが私たちのために死なれなければならなかったひとつの理由は、あなたと私がうそつきだからです。私たちはいつでも、真実を語るべきです。信者たちはひとつのからだのメンバーなのですから、真実を語ることは、命令なのです。真理の戦いの中で、中立でいられる信者はひとりもいません。特にほかのクリスチャンの、うそをつたリゴシップを流したりする舌を憎むべきです。でも、私たちはペテロが言うような生まれつきの憎しみや悪意のある人を、憎んだりひどく嫌ったりするべきではありません。悪意は、信者の人生の中にはあるべきではないものです。

 

(I ペテロ2:1)「ですから、あなたがたは、すべての悪意、・・・を捨てて、」悪意とは、凝り固まった怒りであると説明されて来ました。間違ったことが正されるとき、そこには敵意があるべきではないのです。赦し、忘れなさい、というのが原則です。抱き続ける憎しみと、罪深い感情は、私たちの生活の中で悪魔に有利な立場を与えます。

 

(エペソ4:28-29)「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」

 

 人間は、その罪深い性質によって、うそつきであると同時に泥棒です。盗むことは私たちの心の中にあるのです。私たちはただ、もともとそのような性質なのです。パウロはここで、大丈夫なように見えるときでさえも、私たちはもう盗みをしてはいけないと言っています。むしろ、何でも余剰の分で、ほかの人たちを助けるべきです。

 

 今日、資金がなくて困っている、立派なクリスチャンのミニストリーが一杯あります。なぜでしょう?なぜなら、多くの信者たちが、自分たちのために富を貯めて、ささげるべき分をささげていないからなのです。信者の口の中の、コントロールできない舌は、堕落した生活のしるしです。いかがわしい、あるいは疑わしい話をする信者は、邪悪な心を明らかにしています。信者の話すことは、教えと、ほかの信者に対する励ましの高い水準になければなりません。あなたは、楽しいときをもち、人生を楽しむことができます。ユーモアもあるべきです。でも、私たちのユーモアは、汚かったり、けがらわしかったりするべきではありません。

 

(エペソ4:30)「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

 

 聖霊は、悲しませることのできる、ひとつの人格です。聖霊を悲しませるものは、何でしょう?ここにあげられていた、数々の罪です。クリスチャンがうそをつくとき、聖霊は悲しみます。クリスチャンが汚れた考えを抱くとき、聖霊は悲しみます。だれでも、悲しむときはどうなりますか?交わりを損ないます。あなたが聖霊を悲しませるとき、つまり聖霊との交わりが壊れるとき、聖霊はあなたの人生の中でお働きになることができません。

 

 今日のクリスチャンの中での大きな違いは何でしょう?本当の違いは、あるクリスチャンたちは悲しんでおられる聖霊共に生きており、あるクリスチャンたちは、悲しんでおられない聖霊と共に生きている、ということです。

 

(エペソ4:31-32)「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 

31節には、聖霊を悲しませることの、追加のリストがあります。これらは、感情的な性質の罪です。その代わりに、神さまが私たちに持って欲しいと願っておられる、感情的な反応が32節に書かれています。「無慈悲」は怒りやすい精神の状態で、ほかの人に対して不快で厳しい意見を生み出します。「そしり」は冒涜ですが、同時にすべての種類の中傷の意味でもあります。そして「悪意」は、前にも見ましたが、凝り固まった憎しみです。

 

 聖霊を悲しませるべきではない、という一度だけの決定的な行動を要求する不定過去命令形です。私たちは、これらの罪を捨て去るという決断をしなければなりません。「~しなさい」は、その人の生活の中に空虚なところがないように、信者の中に起こらなければならない徹底的な変化を示します。「お互いに親切にし」というのは、クリスチャンの礼儀を意味しています。「心の優しい人となり」は、親切よりももっと強いことばです。深く、円熟した愛情で満たされることを意味します。

 

 私たちはほかの人たちの失敗を誇張するのではなく、赦すべきなのです。赦すことの基礎は、律法的ではなく、恵み深いからです。私たちの赦しの中に示される神さまの恵みに基づいたものです。なぜなら、キリストが私たちのために死んでくださったからです。私たちは人を赦すべきです。なぜなら、私たちが赦されているからです。

 

(マタイ6:14-15)「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 

※ 是非、引き続きブログテーマ 「エペソ人への手紙」 をお読みください。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 

 

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