-  1章 教会はからだである。:イントロダクション。父なる神さまが教会をご計画された。御子なる神さまが教会のために代価を支払われた。聖霊なる神さまが教会を守られる。エペソ人たちのために知識と力を求めるパウロの祈り。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 エペソ人への手紙は、教会の天からの召し、声に出すこと(Vocalization)から教理的な部分が始まります。

 

(エペソ1:1-2)「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 

 パウロのすべての書簡の中で、もっとも短いイントロダクションです。このイントロダクションが短いのは、とても率直に言って、この書簡がエペソの教会に送られはしましたが、すべての教会のために書かれたものだったからなのです。言い換えれば、エペソ人への書簡は、その当時の多数の教会のために回覧された手紙でした。

 

 彼は、ひとつの地域教会にというよりは、一般的な教会、つまり、目に見えない、信者の集まりであるからだとしての教会に書いているのです。“キリスト”ということばは、主の肩書きです。主がどのような方であるかが語られているのです。パウロは、はっきりと使徒としてのこれら6つの条件を満たしていました。

 

(1)使徒たちは、自分たちの任務を、直接生けるイエスさまの口から受けた。

(2)使徒は、主がよみがえられたあと、救い主にお会いした。

(3)使徒たちは、特別な霊感を行使した。

(4)彼らは最高の権威を行使した。

(5)彼らの権威のしるしは、奇蹟を行なう力だった。

(6)彼らは、教会を建てあげるという、普遍の任務を受けていた。

 

 彼は、自分の使徒職の土台が神さまのみこころであることを、これらすべての箇所で言っているのです。

 

 聖徒ということばは、「聖なる」あるいは「分けられた」という意味の、“ハギオス(hagios)”ということばです。このことばのおもな意味は、「ただ神さまの御用のために取っておかれ、神さまに属している」ということです。救われるとは、“キリストのうちに”あることです。私たちは、聖霊のバプテスマによって、取り消せない方法で、有機的にキリストにつなげられたのです。

 

(I コリント12:12-13)「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

 

 私たちは主に属しています。そして、それほどすばらしいことはほかに何ひとつありません。“平和”は、神さまとの平和のことです。なぜなら、私たちの罪が赦されたからです。私たちが神さまの恵みのことを知るまでは、私たちの罪は決して赦されることはありません。

 

(エペソ1:3)「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

 

 私たちはすべての霊的な祝福をもって祝福され、その祝福は天のものたちの中にあるのです。もしあなたが天国に行くのなら、あなたはすでにキリストにあって、今、そこにいるのです。神さまは、キリストにあって、天のものたちの中であなたを祝福してくださいました。そしてあなたはこの地上での地位に関わりなく、もうすでにそこにいるのです。

 

 私はキリストにあって、すべての物を持っているのです。私は、すべての霊的な祝福をもって祝福されてきたのです。それ以上に何ができると言うのでしょう?あなたがキリストのもとに行くとき、あなたはキリストにあって、すべての物を持っているのです。神さまは私たちに物理的な祝福は約束されませんでしたが、霊的な祝福を約束してくださいました。そして、その霊的な祝福はキリストにあって天のものたちの中にあるのです。この人生において、どんな霊的な祝福も、イエス・キリストを通さないで来ることはありません。主はそれほどに大切なのです。

 

(エペソ1:4)「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

 

 全体の考えは、‘あなたに与えられた贈り物を開けて、神さまがあなたのために何をしてくださったのかを見なさい。そのあと、信仰によって一歩踏み出してその贈り物を握りなさい。それから今日を、神さまがあなたを連れて来てくださった、高い水準で生きなさい。ということです。神さまはあなたを子としてくださり、すべての霊的な祝福をもって祝福してくださいました。

 

 今日私たちは、この世でそれにふさわしく生きる必要があります。永遠の昔、あなたや私がこの世に全く存在する前から、神さまは私たちの救いを計画していてくださったのです。あなたがイエスさまを見つけるのではありません。“主が”あなたを見つけてくださるのです。迷子の羊のあとを追って行かれたのは主です。そして、その羊を見つけられたのも主なのです。神さまは、世界の基のおかれる前、ずっと前の永遠の昔に信者たちをキリストにあって選ばれました。つまり、あなたや私が選んだのではない、という意味です。

 

 神さまは、私たちが良い者だったから、あるいは私たちが何か良いことをするから私たちを選ばれたのではありません。神さまは、私たちが何か良いことが“できるように”私たちを選ばれたのです。選び全体は、神さまの知恵と恵み深さの主権だけにかかっているのです。もしもあなたが罪の中に生き続けるのなら、あなたは救われていない罪人だからなのです。救われた罪人は、生き方に変化が出て来ます。お分かりのとおり、“あなたが”選択しなければなりません。だれでも来るもの、そこにはあなたも含まれているのです。これは、正当な招きです。

 

(エペソ1:5)「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

 

 私たちは今日、神さまのために立ち上がるために、主にあって選ばれていることを“知る”必要があります。知ることは、あなたの人生にとても大きな違いをもたらすでしょう。人間は、罪人であるから失われているのであり、彼らは罪人であることを欲し、自分でそのように選んだのです。神さまの選びは、決して人間の自由意志を侵害するものではありません。失われた人間は、自分で選択をするのです。私が天国に行く唯一の理由は、神さまのあわれみです。私は失われた罪人です。

 

 あなたも私も自ら進んで、つまらない人間として神さまのもとに行き、そのあと神さまに私たちを何者かにしていただくまでは、あなたも私も、決して救われることはありません。神さまがご自分のあわれみを差し伸ばそうと準備された相手は、失われた罪人なのです。今日私たちの問題は、聖書が私たちの人生の罪を有罪と定めている、ということです。神さまは、あなたの心が喜んで神さまに向きたいなら、あなたをお救いになります。

 

 神さまは、あなたと私をいつの日にか天国に入れることができるためにこのようにご計画されました。そして、私たちが天国に行ったとき、私たちは神さまが自分たちを天国に入れてくださったのだ、と知るようになるのです。

 

(ローマ8:28-29)「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

 

 この箇所は疲れた心のためのすばらしい枕だ、とよく言っていました。神さまの目的に従って召された人々は、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。

 

(エペソ1:6)「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

 

 すべてのことは神さまの恵みに基づいて行われ、その結末は、神さまのご栄光です。発端(inception)は恵みです。概念(conception )は子とされることです。受け取ること(reception)は神さまのご栄光のためです。「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった」愛する方とはだれでしょう?主イエス・キリストです。

 

 神さまは信者をキリストのうちに見られ、ご自分の御子を受け入れられるのとちょうど同じように、信者を受け入れてくださるのです。すばらしいことです。すべては神さまの恵みの栄光がほめたたえられるためです。神さまこそがほめたたえられる方なのです。神さまがすべてのことを行なわれました。

 

(エペソ1:7)「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

 

 旧約聖書の本文全体が、いけにえの動物の血による罪の贖いを述べています。でも、いけにえの動物の血は、罪を取り去ることはできませんでした。唯一キリストだけが罪を取り去ることができたのです。

 

(ヘブル10:6-13)「『あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。」』すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした』と言い、また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」

 

 主が代価を支払われ、主が私たちを市場から取り去ってくださったのです。私たちは主のものです。”贖い“ということばは、すばらしいことばです。市場に行って、現金で支払う、という意味だけではありません。自分個人で使うために市場から買い取って、 二度とほかのところでは売らないという意味だけでもありません。同時に、代価を支払われたあと、自由にされる、解放されるということも意味しています。 

 

 最後のことばは、自由にするために奴隷を買い取ることで、そしてこの節にある贖いということばには、それが使われているのです。もし罪人が救い主を信じるのなら、神さまの聖なる御子の一滴の血は、この地上のすべての罪人を救うことができます。私たちは主の血による贖いを与えられています。主がそのようにして私たちをお救いになる理由は、

 

(ヘブル9:22)「・・・血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない・・・ 」からなのです。

 

 これは、アダムから、最後のひとりの人に至るまで、人類全体に当てはまる旧約聖書の原則です。私たちは今、あなたを贖うことのできない雄牛やヤギの血によってではなく、尊いキリストの血潮によって贖われています。主の血潮は、それほど尊いのです。前にも言いましたが、もう一度言います。

 

 ‘あなたが神さまのところにつまらない者として行き、神さまに相当の人物にしていただく’のです。神さまはあなたの罪を赦すことがおできになります。主の血と十字架は、必要条件です。これがなければ何もありません。神さまは、代価が支払われるまでは、お赦しになることはできないのです。今日、もしあなたが主を愛しているのなら、主はあなたの奉仕を受けたいと願っておられます。もし、主を愛していないのなら、奉仕することについては、忘れてください。

 

 今日、あまりにもキリストへの献身(commitment)について耳にします。あなたも私も、主にささげる(commit)ものはほとんどありません。私たちは、愛のうちに主に応答するべきで、それはまた、全く違うことです。私たちが主を愛しているのは、主がまず私たちを愛してくださったからです。

 

(エペソ1:8-10)「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」

 

 奥義とは、神さまが以前には明らかにされていなかったことを今は私たちに明らかにしてくださっているもののことです。今この節には、旧約聖書では明らかにされていなかったすばらしい奥義が書かれています。まず、何とか意味がもっと良く分かるように、8節と9節を言い直してみましょう。

 

 「神さまは私たちが富むようにしてくださいました。神さまが、恵みの喜びに従ってキリストのうちに決められた、すべての知識と分別のうちに神さまのみこころの奥義を私たちが知るようにされ」

 

 ディスペンセイションということばは実際に、神さまが何かを特定のときに運営されるその方法を意味しています。神さまはそのように物事を行われます。神さまがアダムのためにされた準備は、あなたや私のためにされた準備とは違うものであることは明らかです。最も熱心な反ディスペンセイション主義者でさえも、エデンの園は今日の南カリフォルニアとは違っていたことを理解できると思います。

 

 そして神さまは、私たちを取り扱われるのとは違うやりかたでアダムを取り扱われたのです。旧約聖書の祭司たちは、神さまに小羊をささげました。神さまは、それが正しい方法だと言われたのです。でも私は、あなたがこの前の日曜日、教会に小羊を連れて行かなかったことを望みます。今日小羊をささげるのは、私たちが神さまに近づくのにこうしなさいと言われた方法ではありません。私たちは違う制度のもとにあります。

 

(エペソ1:11-12)「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」

 

 キリストは私のものです。神さまは私のものです。私たちにとって、何という経験であることでしょう!今日、教会は主にとって、とても大切なものである、と言わせていただきましょう。この地上の人間の計画は、重要ではありません。私たちは、人間の計画が重要だと考えます。人間は今日、世界のための青写真を持って走り回っています。でも、彼らは100年経ってしまえば、地上に留まってはいないのです。その人たちはみんないなくなってしまいます。でも、神さまの偉大なご計画は“確かに”行われるのです。ありがたいことです!

 

 神さまは、信者の気まぐれや願い事をかなえるために存在しておられるのではありません。神さまのご栄光のために、信者が存在しているのです。信者が神さまのみこころの真ん中にいるとき、その人は満ち満ちた、満足と喜びの生活を送っています。神さまは、永遠の未来にわたって、あなたや私を指差し、「見てごらん。彼らは救う価値のないものだったが、わたしが彼らを愛したので救ったのだよ」と言うことがおできになるのです。神さまがそのように言ってくださることが、価値と、名声と、尊厳と、喜びと、栄光を 人生に与えてくれるのです。私たちは今日、神さまのご栄光をほめたたえるために存在します。それで十分です。

 

(エペソ1:13)「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」

 

 聖霊のみわざを見るとき、私たちは次のことが分かります。

(1)聖霊は私たちを新生させてくださる。

(2)聖霊は私たちの避けどころである。

(3)聖霊は私たちの人生に現実性を与えられる。

 

 最初は新生です。私は、この部分は聖書の中で最もすばらしいもののひとつだと信じています。そのみわざは“私たちのうちに”あるのです。召された者たちは神さまのみことばを聞き、それに応答します。

 

 「まあ、私はこのことばを読んだけれど、私には何の意味もない」と言う人もあるでしょう。ところが、誰かほかの人は、このメッセージを読むと、その人が信じるように、神さまの御霊がこのメッセージをその人の心に適用されます。そして、その人がキリストを信じた瞬間、彼は新生するのです。聞いたあと、信じることは論理的なステップです。信じることは時間的にすぐ次のステップではないかも知れませんが、それでも論理的なステップです。

 

 「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じた・・・」この説明は、神さまのみことばの中で私が知っている、新生することの最善の説明です。あなたは真理のみことばを聞きます。あなたの救いの福音、あなたの解放のためのよき知らせです。キリストを信じた瞬間にあなたはバプテスマを受けるのです。また、キリストを信じた瞬間に証印を押されます。聖霊は最初に、聞くように耳を開かれ、それから信仰を植えつけられます。お分かりのように、聖霊の次の論理的なステップは、信者に証印を押されることです。

 

(エペソ1:14)「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

 

 聖霊は私たちの手付金です。聖霊は、保証と、これからもっと霊的な祝福が続いていく、というしるしとして私たちに与えられました。私たちには相続財産があることを、すでに見ました。もっと多くのものが続くのです。聖霊はその手付け、保証です。これらすべてのことは、「神の栄光をほめたたえるためです。」

 

(エペソ1:15-16)「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」

 

 エペソの教会は、信仰と愛で知られていました。聖徒たちによって、本当の愛が示されていました。その愛は、主イエスにある彼らの信仰に基づいていました。最高の教会でした。黙示録の中で、エペソの教会は、初代教会のもっとも最高の状態を代表しています。彼らの信仰と愛とのゆえに、パウロはエペソ人たちのために神さまに感謝しています。

 

 神さまはメッセンジャー・ボーイではありません。ときどきは神さまに感謝しようではありませんか。私たちには、もっと感謝をささげる礼拝が必要です。エペソ人たちは、パウロを愛しただけではなく、神さまのみことばをも愛していたのです。パウロは、偉大な祈りの人でした。

 

 この書簡には、パウロの2つの祈りがあります。今見ているのは最初の祈りです。ある人物が神さまの子どもであるかそうでないかは、その人の祈りの生活によって判断することができます。その人は、どれだけ神さまへの信頼を感じているでしょうか?もし何か必要があれば、その人は祈りのうちに、自分のために神さまのところに行きます。その人はまた、ほかのひとのためのとりなしのうちに、神さまのところに行きます。

 

 国中からお便りをくださった人たち、また海外からくださった人たちも、その人たちに会ったとき、「あなたのことを祈りに覚えていますよ。」と言ってくださいました。私にとって、祈ってくださることは、その人たちの信仰のしるしです。誰かのために祈るときには、その人の名前をあげて祈ってください。パウロの祈りの動機が、良き知らせであることはすでに見ました。今私たちは、パウロが物質的なもののためにではなく、霊的な祝福のために祈ることを見て行きます。霊的な祝福こそ、重要なことのすべてなのです。

 

(エペソ1:17)「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」

 

 パウロは、神さまの御霊が彼らの教師となって神さまのみことばを彼らのために開いてくださらない限り、エペソ人たちはすべてこのことを理解することができないことを認めました。神さまの聖霊だけが、神さまの知識を明らかにすることがおできになるのです。

 

「むしろ私は、北アイルランドの故国の小さな小屋の土間にひざまずいて学んだんだ。そこで私は目の前に聖書を開いて何時間もひざまずき、神さまの御霊に願ったんだ。キリストのことを私のたましいに示してください、みことばを私の心にひもといてください、とね。御霊は、世界中の神学校と大学で学べることよりももっと多くのことを、土間でひざまずいている私に教えてくださったよ。」

 

神さまの御霊が私たちを教えてくださる方である、というのは、何とすばらしく栄光に満ちたことでしょう。

 

(エペソ1:18)「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」

 

 あなたがたの知力の目ではなく、あなたがたの心の目が理解しなければなりません。知的にとても立派であることは可能ですが、そのことが霊的な理解の保証にはならないのです。聖書は、頭の理解よりも、心の理解を強調しています。

 

(I コリント2:9-10)「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」

 

 クリスチャンのあなたは、神さまの御霊に教えていただいたら良いのです。聖書の中で時間を費やしてください。聖書の中の一定の箇所に来ると、その部分は無益な箇所だ、と思うかもしれません。もし理解できないなら、その箇所を何度も読み、それでもその中に大して何もないように思えるなら、主の前にひざまずいて、主にこう申し上げるのです。

 

「私には要点が分かりません。教えてください。」私はそうしています。主は私に教えてくださいます。あなたにも教えてくださるはずです。私たちは主にあって相続財産が与えられている、ということを学びました。同時に、主が私たちのうちに相続財産を持っておられることをも知るべきです。

 

 この実例は、カナンの地であると思います。地は神さまに属していましたが、神さまがその地を彼らの財産としてイスラエルの子らに与えられたのです。イスラエルの子らは、その地に結びついています。

 

(エペソ1:19)「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

 

 ‘信じる私たちに向けられた神さまの力の強さの働き(活気付けること)によって、非常な(激しい)神さまの力(ダイナマイトの力)の偉大さが何であるかを知ることができますように。

 

(エペソ1:20)「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、」

 

 キリストを死者の中からよみがえらせるのに十分な力です。ものすごい力です。この力は、よみがえりの力であるだけでなく、キリストを神さまの右手におかれた、昇天の力でもあります。

 

(エペソ1:21-23)「また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

 パウロはとてもとても高い旋律で締めくくります。教会はキリストのからだであり、キリストは教会のかしらであられます。いつの日か、すべての物が主の下に従わせられます。ヘブル人への手紙の著者は、このことをはっきり示しています。

 

(ヘブル2:8)「『万物をその足の下に従わせられました。』万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」

 

 現在、主の下にある唯一のものは教会です。私が意味しているのは、本当の教会、本当の信者たちのことです。自分たちを教会であると呼びながら、主イエスに聞き従ってはいない、組織化されたグループが多くあります。これらの教会は麻痺しています。お分かりのとおり、最も悲劇的な光景は、神さまの子どもがベッドに横たわり、脳がその人から切り離されてしまったかのように、なすすべがないことです。

 

 主があなたにこの地上で「動く」ことを望まれるとき、つまり、主があなたにくださった賜物を働かせるということですが、そのときあなたは愛のゆえに動きます。そうでなければあなたは主につながってはいないのです。私たちが理解する必要があるのは、キリストがご自分の教会であるからだの、かしらであられること、そして私たちは主のもとにある、ということです。

 

(I コリント12:12-13)「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

 

※ 是非、引き続きブログをお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。