-  3章 神さまは、舌によって信仰を試される。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 今日、私たちには言論の自由と同時に聞くことの自由が必要です。この章は、「神さまの大学での言論の自由」を扱っています。「神さまはあなたの会話を盗聴される」神さまには、私たちの会話を盗聴する、あるいは立ち聞きする権利があるということには、何の疑問もありません。神さまはその権利を長いこと持っておられますし、あなたや私が言ったことのすべてを聞いておられます。

 

 舌は、世界中で最も危険な武器です。原子爆弾よりももっと致命的なのに、注意深く検査されることはないのです。うっかり口を滑らすことを防ぎたいなら、5つのことに十分注意しなさい。誰に話すか、誰について話すか、そしてどうやって、いつ、どこで話すかだ。私は、世界で最も危険なものは、舌であると熱心に信じています。「あなたは口に出さないことばの主人であるが、口に出したことばはあなたの主人である。」言い換えれば、一度口から出してしまったら、そのことばにはあなたのコントロールは及ばないということです。

 

(ヤコブ3:1)「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」

 

 ヤコブは、教師にはより大きな責任があると言っています。その理由は、間違ったことを教えてしまう、大きな危険があるからです。私は、あまりにも多くのクリスチャンたちが、特に預言と関係のある、あらゆる種類の教えにだまされる方法に、全く驚き圧倒されます。そのような教師に必要なのは、流暢な舌だけです。舌はとても危険なものです。ヤコブはここで、「多くの者が教師になってはいけません。」と言っています。あなたが神さまの子どもになった瞬間に、聖書クラスを始めて黙示録を教えられるなどと考えてはいけません。もし私たちの教えが間違っているのなら、私たちは、神さまのさばきの下にいることになるのです。神さまのみことばを宣べ伝える機会が多ければ多いほど、神さまご自身に対するあなたの責任は大きくなります。

 

(ヤコブ3:2)「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

 言い換えれば、もしその人が自分の話すことを制御できるなら、彼は自分のからだ全体も、事実、彼の生活全体をも制御できるのです。人間は、ことばに考えを込めることができます。自分を表現することができます。理解してもらうことができます。最高のレベルでコミュニケーションすることができるのです。舌は、あなたや私がつけている記章です。私たちがどのような者であるかを確認するものなのです。舌は、人生で最も偉大な目録です。私たちの人生の目次なのです。

 

(ヤコブ3:3)「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

 くつわのはみは、感心するほど大きなものではありませんが、元気一杯の馬を抑制し、馬が走り去ることがないようにします。

 

(ヤコブ3:4)「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

 舌は私たちの人生の進路を変えることもできます。人々は、舌のせいで破滅させられて来ました。多くの女性たちのけがれのない名声が、一部のうわさ好きの舌によって損なわれて来ました。(箴言6:16-17)偽りの舌は、神さまが忌み嫌われる7つのもののうちのひとつです。不注意なことばは争いを燃え立たせ、残酷なことばは人生を破壊するだろう。苦々しいことばは憎しみをしみ込ませ、残忍なことばは打ちのめし、殺すだろう。親切なことばは道をならし楽しいことばは1日を照らすだろう。ときにかなったことばはストレスを減らし、優しいことばはいやし、祝福するだろう。私が神さまのみことばを教えるときに欲しいのは、そのような種類の舌、小さな子どもでも、お年寄りでも理解することができることを話せる舌です。

 

(ヤコブ3:5-6)「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

 

 舌は、火のようなものです。制御されているときには、舌は祝福です。制御できないとき、舌は荒廃をもたらします。舌は、薬にものろいにもなり得るのです。(箴言12:18)舌は、人を殺す剣になることもできれば、同時に、いやしそのものになることもできます。なんという描写でしょう!

 

(ヤコブ3:7-8)「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

 

 ライオンを調教することはできます。象を調教することもできます。でも、「この世で一番、調教しにくいものは、歯の裏の巣にいる。」と誰かが言ったように、舌を調教することはできないのです。舌は、どこの動物園にもおらず、どのサーカスもパフォーマンスをさせることができず、だれひとり調教することはできません。あがなわれた体の中の、神さまが調教してくださった新生した舌だけが、神さまのために用いられることができます。(ローマ10:9)言い換えれば、私たちはデュエットで歌うべきだということです。舌と心とが調和していなければならないのです。(マタイ12:34)「『・・・心に満ちていることを口が話すのです。』」もし何かが心の中にあれば、遅かれ早かれあなたはそれを言うことになります。

 

(ヤコブ3:9-10)「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」

 

 あなたや私が持っている舌は、神さまを賛美することもでき、神さまを冒涜することもできます。舌は人間を動物の世界よりも上に引き上げます。

 

(ヤコブ3:11-12)「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」

 

 言い換えれば、人間は二面性があり、二心があって、そして二枚舌を使うことができる、つまりその人は良いことも、悪いことも言えるということです。でも、この地上には、甘い水と苦い水を出す泉も、いちじくとオリーブを一緒にならせる木も、ひとつもないのです。さて、舌は、純粋な信仰を明らかにします。なぜなら、心の中にあることを告白するのは、舌だからです。

 

(ヤコブ3:13)「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」

 

 舌は、純粋な信仰を明らかにすることができます。神さまのために、証しをすることができるのです。舌は、知恵を語ることもできます。

 

(ヤコブ3:14)「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」

 

 敵対心と苦いねたみは、確かに信仰の実ではありません。そして、舌はそのような問題を引き起こすことができるのです。ヤコブは、愚かな信者の舌と、賢い信者の舌とを比較しています。事実、(だれかの)舌が制御されていないせいで、ほかの人たちは心の中で、この人は神さまの子どもなのだろうか違うのだろうか?という疑問を持ちます。偽る舌は、週日の間に会話をしていることで主を否定します。

 

(ヤコブ3:15)「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」

 

 ヤコブは、敵対心やねたみは、神さまから出たものではないことをとてもはっきりと示しています。

 

(ヤコブ3:16)「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」

 

 制御されていない舌は、ねたみや敵対心を生み出し、「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行い」につながって行きます。今日私たちがこの世で目にする混乱は、あの、舌という小さなものを使って、悪魔の働きによってもたらされた混乱であり、とても多くの問題を起こしています。

 

(ヤコブ3:17)「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」

 

 「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり」とは、つまり、混ざり合っていないということです。薄められてもいません。オリジナルです。この知恵は、神さまから来たものであり、ヤコブはこの知恵をはっきりと定義しています。この知恵は、「次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」

 

 偽物の教えは、いつでも敵対心と、ねたみと、問題を生み出すという事実を語っています。「この世の邪悪さは、単に人間の仕業であるということで説明することはできない。それは、人間プラス何かであって、だからこそ、キリスト教以外の宗教が成功しているのである。それらは超自然である。しかし、その力は、下から来るのである。」と彼は言います。

 

 何であっても、分裂と敵対心を引き起こすものは、それがどこの教会の中であるかに関わらず、それは主から来たものではないということは確かです。あなたは、自分のファンダメンタル主義を自慢しているかも知れませんが、もしあなたが敵対心を引き起こしているのなら、あなたは自分を偽って生きているのです。

 

(ヤコブ3:18)「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」

 

 義の実は、信仰の実です。平和の前に、義がなければなりません。私は、この考えが国連に届くことを願っています。ワシントンD.C.に、モスクワに、北京に、そして世界中のほかのすべての首都に、届いたら良いのにと思います。義がなくては、平和を得ることはできません。

 

 詩篇記者が、義と平和が口づけするときがくると言っているその日が来ようとしています。(詩篇85:10参照)

 

(詩篇85:10)「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」

 

 今日、義と平和は、お互いを知りもしません。お互いを認識することさえできないのです。3章をもって、ヤコブが純粋な信仰を見分けることを取り扱ってきた、ヤコブの手紙の最初の区分は終わります。信仰には、違いがあります。間違ったものを信じることもできます。あるいは、ただうなずくことだけを信仰と呼ぶこともできます。でも“救いにいたらせる信仰”は、良いおこないを生み出す信仰です。

 

 ここまでの3つの章では、ヤコブは、神さまが私たちの信仰が純粋であるかどうかを試される、さまざまな方法を示して来ました。まず最初に、神さまは試練によって信仰を試されます。ヤコブは、純粋な信仰は、信者の人生の中に明らかにされるということを、ここまではっきりと示して来たのです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ヤコブの手紙」をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。