-  2章 神さまは、人物に関する態度と行動によって、信仰を試される。神さまは良いおこないによって信仰を試される。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 この章の最初の13節までは、ヤコブは私たちが社会の違う層の人たちをどのように待遇するべきかを扱います。神さまは、貧しいものの側に立たれます。私は、そのように言えることをとても嬉しく思っています。結局のところ、主イエスがこの世に来られたとき、主は金持ちのお坊ちゃんではありませんでした。第一に神さまの戦いは、頭にも、腹にも向けられることはなく、心に向けられます。階級に対する戦いです。ヤコブは、お金によってもたらされてきた、信者の間での差別と分裂について話しているのです。

 

(ヤコブ2:1)「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

 キリストのからだのうちにあるとき、彼らはすべて“ひとつ”なのです。信者の集まりのうちには兄弟関係があり、主イエス・キリストが共通項なのです。友情と交わりが、信者の間での法定通貨です。もしあなたが主イエス・キリストのものであり、もうひとりの人物が主イエス・キリストのものであるのなら、その人はあなたの兄弟です。

 

(ヤコブ2:2)「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。」

 

 言うならば、これ見よがしでした。彼の服装は貧しい人とは対照的です。私は普通の格好で教会に行くようになりました。そしてそのとき以来、私は普通の服装をしています。ちょうど、教会の席に座っている人と同じような服装です。服装に強調を置いてしまうという危険があるのです。

 

(ヤコブ2:3)「あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言うとすれば、」

 

 貧しい人をずっとうしろの案内係の座る席に座らせるか、あるいは、その人にうしろに立っていなさいと言うようなものです。この当時は前のほうに、著名な人たちだけが座ることのできる席がいくつかありました。アメリカ合衆国では、お金を払って座る席があった時代がありました。

 

(ヤコブ2:4)「あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

 このふたりの人を比べたあと、ヤコブは次のように訊ねます。「あなたは実際、不公平になったのではありませんか?あるいは差別をして、悪い動機でさばく者になってはいませんか?」 

 

(ヤコブ2:5)「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」

 

 貧しい信者は確かに、ある教会の中では見下げられていますが、それでもその人は、その教会の中では霊的に一番豊かな人であるかも知れないのです。神さまのみことばには、貧しい人たちのことがとても多く書かれています。神さまは、創世記から黙示録に渡って、ご自分が貧しい人たちに関心を寄せ、彼らのことを考慮しておられることをはっきりと示されました。人々が生まれたままの人間で、新生したクリスチャンでない限り、貧しい人はこの世では決して公平な扱いを受けることはありません。彼らの唯一の望みは、イエス・キリストのうちにあるのです。

 

(詩篇72:12-13)「これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。」

 

神さまは、金持ちや権力にある人々による、この地上での貧しい人々に対する虐待について、多くのことを言われます。いつの日か、虐待している人々は神さまにそのことについて申し開きをしなければなりません。でも、貧しい人々は霊的なことにおいて豊かになることができます。貧しい人はそのことを理解することが重要です。

 

(ヤコブ2:6)「それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。」

 

 貧しい人々がこの地上でどのように扱われるかを見て来たからです。彼らの唯一の望みはイエス・キリストにあります。彼らはこの世で軽蔑されて来ました。金持ちと権力者たちは彼らの票が欲しいだけで、貧しい人々に対する彼らの関心はそこで終わりです。

 

(ヤコブ2:7)「あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

 「尊い御名」と書かれています。もしあなたが貧しい人たちを虐待するなら、あなたはキリストの御名を冒涜していることになるのです。

 

(ヤコブ2:8)「 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」

 

 もしあなたが、神さまを喜ばせたい、神さまに従いたい、そして自分の負債を返済したいと思うなら、あなたがなすべきことをヤコブはとてもはっきりと示しています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということです。これは、モーセの律法の、人に対する局面の総括なのです。

 

(ヤコブ2:9)「 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」

 

 律法は、金持ちと貧しい人の間の差別を罪に定めます。「いやあ、ボクは殺人も犯していないし、姦淫も犯してはいませんよ。」と言う人がいるでしょう。そうですか?ヤコブがなんと言っているか、耳を傾けてください。

 

(ヤコブ2:10)「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」

 

 ヤコブは、もしあなたがひとつの戒めを破ったら、全部を破ったのだと言っているのではありません。彼は、あなたがどの戒めを破ったかに関わりなく、戒めを破ったことについて有罪だと言っているのです。

 

(ヤコブ2:11)「なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」

 

 私たちはみんな、神さまの前に法を破った者として立ちます。ひとつの法を破れば、法律違反者になります。

 

(ヤコブ2:12)「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。」
 

 「自由の律法」とは、キリストの律法です。主イエスは言われました。(ヨハネ14:15)主の戒めとは何でしょう?(ヨハネ15:12) 

 

(ヤコブ2:13)「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

 今日私たちは、私たちが誰かほかの人よりすぐれていると考えたり、ほかの人たちを見下すことが“罪深い”ことであるとどれほど認識する必要があるでしょう。人間が誰であるかは問題ではありません。神さまの御前に、その人はあなたと同じ水準にいるのです。私たちは罪人であり、あの金持ちの夫婦のように、前に出る必要があります。私たちは十字架のところに行って、キリストを自分の救い主として受け入れる必要があるのです。これこそ私たちすべてが基礎としてキリストのみもとに行かなければならないことなのです。

 

(ヤコブ2:14)「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

 

 ヤコブは、律法のおこないについて話しているのではありません。彼は単に、あなたを救いにいたらせる信仰は“確かに”おこない、つまり信仰のおこないを生み出すのだと言っているのです。最も頭の良い悪霊が、神さまがおられ、イエス・キリストもおられ、そして主を信じることで救われるが、しなければならないことはキリストにある信仰を告白することだけで、そのあと、今までどおりに罪の生活を続ければ良いとすべての人に教えれば良いと提案したのです。

 

 彼らは、この作戦を使うことに決定し、今日でさえも悪魔はこの作戦を使っています。“信じること”には、多くの“おこなうこと”が伴うのです。ですから、救いにいたらせる信仰は生きています。口先だけの信仰は死んでいるのです。もしあなたが神さまの子どもであるなら、あなたは自分の好きなようにはできません。神さまの道をおこないます。

 

(ローマ8:9)「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

 

ヤコブは“信仰の識別(identification of faith)”を取り扱います。救いにいたらせる信仰は、特定の霊的な指紋によって、認識され、識別されることができます。純粋な信仰の証拠というものがあります。ヤコブは、次のような実際的な実例をあげています。

 

(ヤコブ2:15-16)「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」

 

あなたも誰かに、「ああ、兄弟。私はあなたの味方ですよ。」と敬虔ぶって言うかも知れません。“本当に”彼の味方ですか?彼を支持していますか?生きた信仰は、何かを“生み出し”ます。それを“識別する”ことができるのです。

 

(ヤコブ2:17-18)「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』」

 

 ヤコブの説明から引き出さなければなりません。彼は、信仰の実について話しています。パウロは、信仰の根について話します。ふたりとも別々の点を強調していますが、パウロもヤコブも信仰だけが救うのだと言っています。パウロはまた、その信仰は実を生み出すと言います。

 

(ヨハネ15:5)「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・」

 

「いやあ、あなたとその強盗の違いは、彼は死のうとしていた強盗で、あなたは生きている強盗だということですね。」自分が持っているたったひとつの舌さえも使いません。それに私たちは「すべての自然の領域が私のものだったとしても、それは主に差し上げるにはあまりにも小さすぎる」とも歌いながら、主に全く何ひとつ差し上げることはありません。ヤコブは、信仰が救うのであるが、救いにいたらせる信仰は何かを生み出すものだと言います。

 

(ヤコブ2:19)「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

 空っぽのお世辞(Lip service、リップサービス)は、救いにいたらせる信仰の証拠ではありません。悪霊どもさえも信じているのです。

 

(ヤコブ2:20)「ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」

 

 この世に関する限り、信仰の実のない信仰は、空っぽで役に立ちません。さて、ヤコブは“信仰の実例(illustration of faith)”を示します。事実ここには、ふたつの実例があげられています。

 

(ヤコブ2:21-24)「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」

 

 パウロは、アブラハムは“信仰”によって義と認められたと言いました。

 

(ローマ4:3)「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります。」

 

 神さまが彼に求められたので、彼は進んでそのようにしました。彼は、神さまがイサクを死者の中からよみがえらせてくださると信じました。神さまが代用の物を供えてくださったので、アブラハムは実際には決してイサクをささげはしなかったのですが、もし神さまが彼を止めることをなさらなかったなら、彼はイサクをささげていたことでしょう。これは、自分の行動によって信仰を実演するという事実のえり抜きの実例です。この人(アブラハム)の行動は、“彼が神さまを信じた”ことでした。

 

(ヤコブ2:25)「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」

 

 エリコの町に住んでいた女性は、自分の古い生活と自分自身の民に背を向けることで、自分のいのちを危険にさらしたのです。彼女にとって得であったことが損になりました。彼女は、イスラエル人のスパイたちに、「あなたがたが町に入って来るとき、私はただ、脇に立って、『すべての祝福の源なる神をたたえよ』と歌いますね。」とは言いませんでした。

 

 「私は何かを“します”。あなたがたを隠します。なぜなら、私は神さまがイスラエルの人々にこの地をお与えになると信じているからです。私たちは40年に渡って、あなたがたのことを耳にして来ました。私は神さまを信じます。」と言ったのです。

 

 彼女は神さまを信じ、(このことに)関わりあいました。彼女は、神さまの御前に自分の信仰によって義と認められました。自分の民とイスラエルの民の前で、彼女はおこないによって義と認められたのです。もしあなたが生きた信仰を持っているのなら、あなたの人生には実がなります。

 

(II コリント13:5)「 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──」

 

(ヤコブ2:26)「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」

 

 おこないのない信仰は、死体置き場の中にある死んだからだのようです。ヤコブがそう言いました。パウロもそう言いました。そして、ヴァーノン・マギーは両方とも信じます。なぜなら、彼らは私たちに神さまのみことばで(それが確かだと)約束しているからです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ヤコブの手紙」をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。