-   2章 神さまは独善的な人々と宗教的な人々をさばかれる。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 この章でパウロは、神さまが独善的な人々と宗教的な人々とをさばかれることを示しています。神さまの要求に答えるには、丘の上にいても丘の下でと同じようにハードルは高いのです。唯一の違いは、おそらく丘のふもとにいる人のほうが、丘の上にいる人よりも早く自分の必要に気づくだろうということだけです。宗教的な人にも、独善的な人にも、そしていわゆる良い人たちにも救い主が必要です。2章では、パウロは神さまが「良い」人たちをさばかれるための一定の原則を書き留めています。1章は人間の不義を明らかにしました。2章は人間の独善性を明らかにします。

 

(ローマ2:1)「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 

 彼は“罪”について、そして神さまが人間をさばかれる基準について話しているのです。このさばきの原則は、救いの基準ではありません。さばきの基準です。そこで、今日キリストを自分のものとしていない人々は、“失われて”いるのです。宗教的な人かもしれませんし、良い人かもしれませんが、でもキリストを自分のものとしていないなら、その人は失われているのです。

 

 「あなたに弁解の余地はありません。」これには、ユダヤ人も異邦人も含まれ、一般的に人類のことを話しています。さて、ここでの「さばく」ということばには、敵意を持つ評決という意味合いがあります。これは、「すべて他人を罪に定める人よ」と訳すことができます。今日の信者は、ローマ1章に書かれている、このひどくて恐ろしい人々の集まりに対して、どのような態度をとるべきでしょうか?次のようであるべきです。

 

 彼らに救われて欲しいと願うべきです。彼らに福音を届けようと試みなければなりません。彼らは気の毒な、失われた被造物なのです。神さまの目から見れば、文化的で洗練された罪人に対して不快感を与えるひどく堕落した異教徒の行動と同じように悪いのだ、という意味です。そしてあなたや私も、私たちの水準に立っていない人たちをさばいています。私たちは今日、社会の基準を使いますが、それはさまざまです。もし誰かがあなたのグループの基準に達しないなら、その人を非難します。神さまは、あなたが人をあなたの基準でさばくのと同様に、神さまもご自分の基準であなたをさばく権利がある、と言っておられます。

 

 もし私たちが自分自身を、神さまがご覧になるように見ることができるなら、私たちがどれだけ醜悪で、不快であるかが分かることでしょう!あなたや私が、天国にどのような貢献ができるのでしょう?あなたは神さまにほかの人々をさばくという同じ特権を与えることを拒もうとしています。神さまは、“あなたを”さばかれます。そして、さばかれるときには、あなたの基準ではなく、“神さまの”基準でさばかれるのです。あなたの考えは変わり始めましたか?考えを変えるべきですよ。なぜなら、私たちは神さまの基準に達することなどできないからです。

 

(ローマ2:2)「私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。」

 

 言い換えれば、彼は「私たちは神さまのさばきが現実に基づいているということを“知っている”のです」と言っています。今日、教会のメンバーも含めて、非現実の世界に生きている人たちが大ぜいいます。彼らは福音の真理を聞きたくないのです。そして、今日、バイブル・スタディをしたい、と口では言うのですが、でも現実はしたくない、というとても大ぜいのクリスチャンたちがいるのです。彼らは真理を聞きたくないのです。 

 

 (黙示録10:9-10)「それで、私は御使いのところに行って、『その小さな巻き物を下さい』と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」

 

 人間には、自分よりも崇高な力によって自分がさばかれなければならないという知識が、生まれつき備わっています。キリストを信じていないすべての人は、きたるべき神さまのさばきをとても怖がるか、または否定します。聖書はさばきについてとてもはっきりしています。神さまのさばきは、すべての事実を考慮に入れます。神さまは実際の人間の状況を知っておられます。その人のあるがままをご存知なのです。そして、それに基づいて、神さまはその人をさばかれます。

 

 教養のある人の大きな間違いは、堕落した人物はさばかれなければならないが、自分は違うから逃れられる、と確信しているところにあると思います。ほとんどの人たちは、ヒットラーやスターリンはさばかれて当然だが、自分たちは逃れるはずだと信じています。神さまは、“ご自分の”目から見てその人がどのような人物かによって、人間をさばかれるのです。

 

(ローマ2:3)「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」

 

 あなたの違反は必ず発見されます。神さまの管轄外に逃げることはできません。法的なミスはあり得ません。絶対に脱獄することもできません。

 

(ローマ2:4)「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

 

 今日私たちは、神さまの“慈愛”が私たちを神さまの御前にひざまずかせるものであることを認識するべきです。でも、その代わりに、神さまの慈愛が人々を神さまから引き離しています。ダビデは、邪悪な者たちが栄えることができることに動揺しました。

 

 (詩篇73:3-5)「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。」

 

彼らは必ず神さまのさばきに会うのです。もしもあなたがまだキリスト信じておらず、あなたの唯一の望みがこの地上での生涯の中にあるのなら、この地をオレンジの汁のように吸い取って、ここから得られるすべての物を得るのが得策です。飲めるだけ飲んで、できるだけ罪を犯してください。なぜなら、あなたに次の人生はないのですから。もし、そのように生活したいのなら、ここにいる間にすべての物を得るのがよいでしょう。食べ、飲み、そして楽しめ、です。明日にはあなたは死ぬのだから、というわけです。でも、あなたには救い主が必要なのです。そして、神さまの慈愛があなたを神さまに導くはずです。

 

(ローマ2:5)「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」

 

 神さまはあなたを祝福して来られたのです。この地上の、大ぜいの人たち、何もなく、文字通り飢え死にしようとしている人たちのことを考えてごらんなさい。そして邪悪なあなたは、世界の頂点に生きています。あなたは、神さまがあなたをさばかないとでも思っているのですか? 自分は逃れられるとでも?神さまの慈愛それ自体が、あなたを悔い改めに導くはずです。

 

(ローマ2:6)「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」

 

 神さまは、ひとりひとり、その人の行いに従って報われます。絶対的な正義は、さばきや報いの尺度です。人間の行いは、神さまの前で神さまの聖なる光の中に立ちます。まともな人なら、これを基準としてさばかれたいと言う人はひとりもいません。

 

(ローマ2:7)「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、」

 

 この第二の原則のもとには、生き方は論題ではない、ということを念頭においておきましょう。むしろ、生き方はさばきの基準です。「良い行いをする人」は、自分の行いによってさばかれます。

 

 (黙示録20:12)「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」

 

 永遠のいのちのために努力したい人は、そのようにしてよいのです。その人は自分の行いに応じてさばかれますが、でもそれらの行いは役に立たないと警告されています。

 

 (黙示録20:15)「 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 

キリストを救い主として信じることによって、あなたの名前は「いのちの書」にしるされます。永遠のいのちは、努力に対する報酬ではありません。キリストを信じる者たちに与えられる贈り物なのです。

 

(ローマ2:11)「神にはえこひいきなどはないからです。」

 

 神さまはえこひいきをなさいません。神さまにはお気に入りはありません。 すべての人は神さまの御前にはみな同じようです。正義の女神 が目隠しをしているのは、彼女の目が見えないからではありません。人が絹を着ているか、ぼろを着ているかを見ないためなのです。

 

(ローマ2:12)「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」

 

 これは、神さまがさばきをされるときのもうひとつの偉大な原則です。次の節にどのように表現されているかを見てください。

 

(ローマ2:13)「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」

 

 異教徒たちはキリストのことを聞いたこともないし、受け入れたこともないので失われているのだ、というのを聞きます。そうではなく、彼らは罪人だから失われているのです。これがすべての人類の状態です。人間は自分たちが持っている光によって“救われる”のではありません。彼らは自分たちの持っている光によって“さばかれる”のです。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、」多くの人たちは、もし自分たちがただ山上の垂訓を“認め”さえすれば救われている、と考えているようです。

 

(ローマ2:15)「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──」

 

 神さまは、異教徒をその人自身の良心によってさばかれます。異教徒は神さまの啓示を与えられていないので、神さまのさばきを逃れる、と考える人たちがいます。でも事実は、彼らは自分たちが持っている光の基準に達するように生きていないのです。神さまはそれに基づいてさばかれるのです。

 

(ローマ2:16)「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」

 

 今日、私たちは間違った考えを持っています。なぜなら、私たちが良い人間なので、それはつまり自分たちがそうだと思っている、という意味ですが、そのために私たちは救われるのだ、という考えです。神さまはすべての良い行いをする人々を“さばかれる”のです。そして神さまは、もしも人が情欲を抱いて女性を見るならば、その人は姦淫の罪を犯したのだ、と言われたイエス・キリストによって人々をさばかれます。(マタイ5:27-28参照)

 

  (マタイ5:27-28)「 『「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』」

 

 これは、人類の心の秘密の中のたったひとつの例に過ぎません。あなたは、ご自分の心の秘密、つまりあなたが口にしたあの感じの良いことではなく、頭の中に浮かんだ、あの汚れた小さな考えを暴かれたいと思いますか?そのことで私たちすべては救っていただくために、イエスさまのところに逃げ込まなければならないはずです。神さまは、宗教的な人々、とくにユダヤ人をさばかれます。なぜなら、ユダヤ人の宗教こそ、神さまから与えられたものだったからです。

 

(ローマ2:17-18)「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、」

 

 宗教はもはやユダヤ人の杖にはなりません。宗教がユダヤ人を誇らせ、自己過信させたのです。光は、より大きな非難をもたらした、さらなる責任を作り出しました。ユダヤ人たちは、異邦人たちに対して、この箇所に書かれている十の特典を持っていました。最初の五つは、その人が何で“あった”かです。

 

(ローマ2:19-20)「また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

 

 あと五つのユダヤ人としての個人的な特権は、その人が“した”ことです。

 

(ローマ2:21-22)「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」

 

 さて、パウロの質問です。パウロはここに三つの一般的な罪をあげています。(1)不道徳―ほかの人たちに対する罪。(2)好色―自分に対する罪。(3)偶像礼拝―神さまに対する罪、です。言い換えれば、「人に勧めることを、自分も実行していますか?」ということです。私たちの多くは、自分たちの行き方よりも良い勧めをしています。ユダヤ人は、異教の宮から来た商品を取り扱ってビジネスとして売買することは、一行に気にしませんでした。

 

(ローマ2:25)「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」

 

 割礼は、モーセの体制のしるしでした。それ以外の何ものでもありませんでした。儀式自体には、何の価値もありませんでした。そのしるしは、その人がモーセの律法を信じていることを示していました。今、律法にそむいたことで、 割礼は不名誉なことになりました。神聖であるべきだったものが、不浄なものになりました。もしもバプテスマを受けた人が救いの証拠を何も示さないならば、それは嘲笑の的にすぎません。このことは教会のメンバーシップに関しても言えることです。ある教会メンバーたちの生活が、教会のメンバーシップを嘲笑の的にしています。

 

(ローマ2:26)「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」

 

 結婚指輪は結婚のシンボルであるかも知れませんが、結婚は、結婚指輪以上のものです。

 

(ローマ2:27)「また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。」

 

 パウロがここで言わんとしていることは、割礼は、なにかを象徴するべきだ、ということです。

 

(ローマ2:29)「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

 

 モーセの律法はすでに、割礼は心のものだと述べていたのです。申命記10:16でモーセが言っていることを聞いてください  

 

(申命記10:16)「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ローマ人への手紙」をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。