-   1章 御霊が来られることの準備。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

(使徒1:1-2)「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」

 

 今は神さまの右手という有利な場所にあって主は聖霊を通して働いておられるのです。命令がひとりの人から他の人へと伝えられる軍隊でのように、主イエス・キリストは聖まを通して働いておられます。聖霊は使徒たちを通して、私たちが今日いるところであなたや私に働かれるのです。これはすごいことです。

 

(使徒1:3)「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」

 

よみがえりのあと、40日間のイエスさまのミニストリー。主はご自分の苦しみと死のあと、ご自分が生きておられることを、多くの“確かな”証拠をもって示されました。主のよみがえりのあと、10回のイエスさまの顕現が記録されています。私たちは主を、栄光のうちにあるおひとりの方として知っているのです。主はまさに今このとき、天におられる現実の方です。

 

 私はナポレオンが生きていたこと、そして彼がウォータールーの戦いを戦ったことを信じています。でも、私はその証拠をほとんど持っていません。実際、ウォータールーの戦いに関するよりも、主イエス・キリストの死とよみがえりに関するほうが、10000倍もの証拠があります。それでもまだ、今日、信じないという人々がいるのです。問題はどこにあるのでしょう?問題は心にあるのです。信じない心に問題があります。

 

 人間には、アダムがそうしたように、神さまから逃げようとする自然の傾向があります。人間は今日、神さまに背を向けています。もしあなたが未信者なら、問題は“あなた”にあるのです。神さまのみことばに問題があるのではありません。主は、多くの確かな証拠によってご自分が生きておられることを示されました。本当に知りたいのなら、知ることができるのです。問題は知りたくない、ということなのです。問題は知性にあるのではありません。意思にあるのです。使徒の働きは、どれほどよみがえられたイエス・キリストに強調点をおいていることでしょう!

 

(使徒1:4)「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。』」

 

 使徒たちは聖霊さまが来られるのを待たなければなりませんでした。主の命令は、そのことが起きるまで待ちなさい、でした。

 

(使徒1:5)「『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」

 

 この聖霊のバプテスマは、父なる神さまの約束であり、イエスさまは前もって彼らにこのことを言われたのです。

 

(使徒1:6)「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」

 

 彼らの質問は、正当で、自然な質問で、そして、主はそのように答えておられます。主は彼らを叱ってはおられません。主は愚かな質問だとはいわれませんでした。

 

(使徒1:7)「イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』」

 

 主は、特にこのときには御国は建てられることはないことを彼らに知らされました。さあ、今、あなたとわたしの間だけの秘密をお話ししましょう。私は、確かに主がもうすぐ来られると信じています。でも、私には主がもうすぐ来られる、とお話しする権威はありません。なぜなら、私には分からないからです。主は私たちにいつとか、どんなときとかいうことは、知らなくてもよいと言われました。それは私たちにとって重要な部分ではありません。ここにあなたの任務が書かれています。

 

(使徒1:8)「『 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」

 

 この任務は、今日にもまだ有効です。この任務は、団体的な集まりとしての教会だけに与えられたものではありません。これは、団体の任務ではないのです。これは、ひとりひとりの信者に対する、とても個人的な命令です。個人的なものなのです。この命令は、これらの人々に、聖霊が下って、教会が形成される前に与えられたものです。今日のあなたや私に対する、直接的な命令です。

 

 私たちの仕事は、神さまのみことばを世界に伝えることです。私たちは、福音を伝えるために宣教師を送るのは教会次第だ、などと言って、座り込んでこの仕事をほかの人たちにやらせるべきではありません。とにかく重要な質問は、“あなたは”神さまのみことばを伝えていますか?ということです。あなたは福音の証人となるために地の果てに出かけていったことがありますか?それとも、地の果てに届いている宣教師やラジオ放送をサポートしておられますか?個人的に関わっておられますか?

 

 今日、主が来られるのがいつとか、どんなときとかいうことを話したがる人たちがあまりにも多くいますが、その人たちは神さまのみことばを伝えることには関わろうとしません。でも、神さまのみことばを伝えることこそが主からの任務なのです。使徒たちにとってだけではなく、あなたや私にとっても、それが主からの任務です。私は、もしも主が突然あなたや私が今いるところに、この瞬間に現われたとしたら、ご自分がいつ来られるかではなく、福音を伝えることについて語られると思います。主は人々が救われることを願っておられます。これが私たちの任務なのです。

 

(使徒1:9)「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」

 

 イエスさまの昇天と再臨の約束。 主イエス・キリストの昇天は、主のミニストリーの中で重要で意義深い奇蹟です。

 

(使徒1:10-11)「イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」

 

 天に上って行かれたのは、栄化されたイエスさまでした。この同じ栄化されたイエスさまが、同じような仕方で、同じ場所に戻って来られるのです。ゼカリヤ14:4には次のようにかかれています。

 

(使徒1:12)「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。」

 

 御霊を待つ。 「安息日の道のり」は1.6キロ未満で、安息日には人々はあまり遠くには行きませんでした。そのために、人々は祭りの日にエルサレムに礼拝しに来たときには、みんな宮のすぐ近くにキャンプをしたのです。オリーブ山は、祭りの時には、おそらくキャンプする数十万人にものぼる人たちで埋め尽くされたことでしょう。なぜでしょう?彼らは宮から安息日の道のり以内の場所に泊まっている必要があったからです。

 

(使徒1:13-14)「彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

 

 使徒たちとほかの信者たちは、ひとつになり、祈って、そして待っていました。この時代をそのまま再現することは、私たちにはできません。思い出してください。このときは、主の昇天と、聖霊が来られることとの間のタイム・カプセルの中にあるのです。あなたも私もその時期に生きてはいません。これは再現できません。私たちは聖霊の来られるのを待っているわけではありません。聖霊はすでに1900年(2000年)前に来られたのです。

 

(使徒1:15-18)「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。『兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。)』」

 

 ひとりの使徒の任命。 ペテロは鮮やかなユダの姿を示していると思いませんか?

 

(使徒1:19-20)「『(このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)実は詩篇には、こう書いてあるのです。「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。」また、「その職は、ほかの人に取らせよ。」』」

 

 ここで何が起こったのかという質問がいつでも出されます。シモン・ペテロは、この選挙をしてユダの代わりとなる人物を選ばなければならなかったのでしょうか?私はそうは思いません。

 

(使徒1:21-22)「『ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。』」

 

 私は、イスカリオテ・ユダの後継者を選ぶ選挙はペテロによって行われましたが、聖霊のご臨在も導きもなしに行われたと思います。聖霊はまだ与えられていませんでした。マッテヤは明らかに良い人でした。彼は使徒としての必要条件を満たしていました。ということは、彼はよみがえられたキリストにお会いしたことになります。それが必須条件でしたか。

 

(使徒1:23-26)「そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」

 

 これが聖霊の導きだとは思えませんし、くじを引いたのも神さまの導きによるとは思えません。マッテヤが実際にユダのあとを継いだのでしょうか?そうではないと思います。私は主イエスがご自分のときに、ご自分でイスカリオテ・ユダの代わりとなる人物を任命されたと思います。これ以降、マッテヤについて何も聞くことはありませんし、彼のミニストリーもなにひとつ記されてはいません。聖霊はマッテヤを無視されたのではないかと思います。

 

 私は、主が選ばれたのはパウロであったと確信しています。「そのように言う権威があるのですか?」と訊ねられるかも知れません。はい、そうです。パウロがガラテヤの信者たちに書いたことに耳を傾けてください。

 

(ガラテヤ1:1)「使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──」

 

 パウロは、自分が父なる神さまと主イエス・キリストによって選ばれたと言っています。主はどのようにして選ばれたのでしょう?主がこの世に送られた、聖霊を通して選ばれたのです。パウロのミニストリーを見れば、確かに彼がユダの代わりになる人物であったという事実が証明されます。

 

 使徒の働きの1章がどのように4つの福音書をひとつの焦点に持ってきているかは、すごいことです。もう一度そのことに触れておきたいと思います。マタイの福音書はよみがえりで終わり、マルコの福音書は昇天で終わり、ルカの福音書は聖霊の約束で終わり、ヨハネの福音書は再臨の約束で終わります。使徒の働きの1章は、この4つすべての記録をまとめ、ひとつひとつに言及しています。4つの福音書は使徒の働きに注ぎ込まれ、使徒の働きは福音書と書簡との間の橋になっています。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「使徒の働き」をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。