-   挽歌(エレジー)、その4 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

この、4つ目の哀歌は、瞑想です。エルサレムの、がれきと灰の中に座ってエレミヤは町の崩壊と、人々がネブカデネザルによって捕囚に連れて行かれたことの恐怖を説明しています。あまりにも恐ろしいので、私なら、このようなさばきの日のメッセージを避けてしまいたいという誘惑にかられるかも知れません。でも、私たちは、神さまは愛であられるのと同時に正義の神さまであるという事実に、直面する必要があるのです。神さまは罪をさばかれます。

 

(哀歌4:1-2)「ああ、金は曇り、美しい黄金は色を変え、聖なる石は、あらゆる道ばたに投げ出されている。純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのようにみなされている。」

 

 エレミヤは、シオンの子らを金と比べています。金の器のようであった立派なシオンの若者が、今は土のつぼのようです。彼らは壊れてしまっています。これが戦争の恐ろしさです。戦争は、国の一番立派な若者たちを消し去ってしまうのです。もし私たちが思うべき分を越えて思い上がることがないのなら、自分がただの土の器であることに気がつくでしょう。  

 

 問題は、器が何でできているかではなく、その器がどのように用いられているかということなのです。私たちは、主人である方に使っていただいている器でしょうか?それとも、自分のための器なのでしょうか?ガリラヤのカナでの婚礼で、主イエスはしもべたちに、あの古ぼけた水がめを持って来させました。主は水がめを用いることがおできになりましたが、まず、水がめを水で満たさなければなりませんでした。水は、神さまのみことばです。古ぼけた水がめである私たちが神さまのみことばに満たされるとき、神さまは私たちをお用いになることができるのです。ユダの若者たちは、神さまに仕えて来ませんでした。今彼らはただの土器のかけらでした。何という悲惨な状況でしょう!

 

(哀歌4:4)「乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。」

 

 ネブカデネザルによるエルサレムの包囲は、恐ろしいものでした。人々は町の中で苦しみました。降参する代わりに、彼らは持ちこたえ小さな赤ん坊たちが死ぬのを目にしました。

 

(哀歌4:5)「ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。」

 

 彼らは贅沢に暮らしていました。大きなスーパー・マーケットがあったのですが、今はその陳列棚は空っぽです。彼らはもはや、前にはあったあの便利な設備をなくしてしまいました。事実、(便利な設備どころか)何ひとつなくなってしまったのです。

 

(哀歌4:6)「私の民の娘の咎は、人手によらず、たちまちくつがえされたソドムの罪より大きい。」

 

 神さまは、ソドムとゴモラをさばかれました。でも、神さまはエルサレムをもっと厳しくさばかれたのです。なぜでしょう?なぜなら、ソドムとゴモラの罪よりも、エルサレムの罪のほうがもっと悪かったからです。ソドムとゴモラは、同性愛によって滅ぼされました。それは、恐ろしい罪です。でも、それよりももっと悪い罪があります。教会の座席に座って福音を聞いているのに、福音について何もしないほうがもっと悪いのです。どこかの異教徒の人たちのことを心配するよりもあなた自身のことを心配しなさい。イエス・キリストのうちにある神さまからの恵みに対して、あなたはどのように応答しましたか?

 

(哀歌4:7)「そのナジル人は雪よりもきよく、乳よりも白かった。そのからだは、紅真珠より赤く、その姿はサファイヤのようであった。」

 

 さて、エレミヤはナジル人は、進んで誓いを立てる人たちのことであると言います。そして多くの人たちが誓いを立てました。彼らはほめられました。ご存知のように、彼らは立派に見えたのです。でもそれはすべて外側のものでした。彼らの心は変わっていませんでした。美しい教会を持つのはすばらしいことです。私は美しい教会に反対しているのではありません。美しい教会は、私をわくわくさせてくれます。でも、その内側にいる人々がキリスト・イエスにあって新しく造られたものではないのなら悲劇です。彼らは同じ古い罪をまだ犯し続けています。それが、エレミヤが描いているユダの人々の姿です。

 

(哀歌4:9)「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。」

 

 エレミヤは、エルサレムの恐ろしい崩壊と死んだ人たちのことを目撃したにもかかわらず、生きているよりも死んだほうがましだというのです。残っている人々の状況があまりにもひどいからです。

 

(哀歌4:10)「私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。」

 

 人々があまりにも飢えて、母親たちは食べるために自分の赤ん坊たちを差し出さなくてはならなかったのです!

 

(哀歌4:13)「 これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。」

 

 偽預言者たち、祭司たちは人々に真実を語らなかったので殺人の罪で有罪です。それが神さまの評価です。神さまのみことばを語らないでいて、人々にどのようにしたら救われるかを教える説教者もこのカテゴリーに入ります。 “私”がそう言ったのではありません。“神さま”がそう言われたのです。神さまは、もしあなたが神さまのみことばを語らないなら、あなたは有罪だと言われます。

 

(哀歌4:16)「【主】ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった。祭司たちも尊ばれず、長老たちも敬われなかった。」

 

 人々は、神さまのみことばを“確かに”宣べ伝えている祭司たちには目も留めませんでした。エレミヤは神さまの預言者でしたが、彼らは全く彼に目を留めなかったのです。そのために、神さまは人々をさばかれました。

 

(哀歌4:17)「それに、私たちの目は、衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」

 

 これは、現代のイスラエルの国が学ばなければならないことです。1948年に彼らをあの地に戻したのは、“神さま”ではありませんでした。”国際連合“が、彼らをひとつの国にしましたが、そのときから彼らには1分たりとも平和はありません。続けて、戦争と戦争の兆しがあるのです。彼らは神さまに立ち返っていません。そして、神さまが彼らをあの地に戻されたのではないのです。私たちがイスラエルに与える必要があるのは、戦争のための兵器ではないことを認識しなければなりません。私たちは、彼らに神さまのみことばを与える必要があります。このみことばは何年も前に、彼らが私たちに与えてくれたものなのです。

 

(哀歌4:20)「私たちの鼻の息である者、【主】に油そそがれた者までも、彼らの落とし穴で捕らえられた。『この者のおかげで、諸国の民の中でも私たちは生きのびる』と私たちが言った者なのに。」

 

 何という、今日の彼らと同じあの人々の姿でしょう!彼らは、異教徒たちの中に散らされているのです。

 

(哀歌4:22)「シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移さない。エドムの娘。主はあなたの咎を罰する。主はあなたの不義をあばく。」

 

 さばきのあと、神さまは彼らを永久にあの地に置かれることを約束されます。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「哀歌」をお読みください。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 

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