リバイバルを伴う改革

 

 

 多くの心の中で、ほとんど霊的な命の息がないように見える。これはわたしを非常に悲しませる。わたしは、世と肉と悪魔に対する激しい戦いが維持されてこなかったのではないかと恐れる。わたしたちは半分死んだキリスト教によって、世の不信心にあずかり、その誤謬に微笑みかけながら、利己的で強欲な世の精神を声援するのであろうか。否!神の恵みによって、真理の諸原則に固く立ち、わたしたちの始めの確信を終わりまでしっかりつかもうではないか。わたしたちは「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」なければならない(ローマ12:11)。 わたしたちの主人は一人であり、キリストであられる。このお方をわたしたちは見ていなければならない。このお方からわたしたちの知恵を受けなければならない。 このお方の恵みによって、わたしたちは自分の尊厳を維持し、柔和と悔悟のうちに神のみ前に立ち、世にこのお方を表すのである。

 わたしたちの諸教会で説教が大いに要求されてきた。教会員は聖霊の代わりに講壇の熱弁に頼ってきた。求められず、用いられないために、彼らに与えられてきた霊的な賜物は、衰え弱くなった。もし牧師が新しい伝道地へ出ていくので あれば、教会員は責任を負うべきであり、自分たちの能力は用いることによって 増し加わる。

 神は牧師や民に霊的な弱さの重い責任を問うて、次のように言われる、「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。 また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」(黙示録3:15-18)。神 は霊的なリバイバルと霊的な改革を求めておられる。これが行われなければ、なまぬるい者たちはますます主にとって嫌悪を催すものとなっていき、ついにはご自分の子として認めることを拒まれるようになる。

 リバイバルと改革が、聖霊の表れのもとに起こらなければならない。リバイバルと改革は二つの異なることである。リバイバルは霊的な命が新たにされること、思いと心の力がよみがえらされること、霊的死からの復活を意味する。改革は再組織、考えと理論、習慣と慣習における変化を意味する。改革は御霊のリバイバルと関連していない限り、義の良い実を結ぶことはない。リバイバルと改革はそれぞれ定められた働きをなすべきであり、この働きをなすことにおいて混ぜ合わされなければならない。(セレクテッド・メッセージ1巻「16章リバイバルへの召し」より127, 128)

起きて悔い改めるべき教会

 

 教会は起きて、神のみ前の背信を悔い改めなさい。見張り人は目覚めて、確かなラッパの音を出しなさい。わたしたちが宣布しなければならないのは、はっきりとした警告である。神はご自分の僕らに次のように言われた。「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ」(イザヤ58:1)。民の注意を集めなければならない。そうでなければこれを成し遂げることはできず、すべての努力は無駄である。天からの使が下りてきて彼らに語っても、その言葉は、死者の冷たい耳に語りかけるのとまったく同じである。

 教会は目覚めて行動しなければならない。神の御霊は、教会が道を備えない限り、決して中に入って来られることはない。真剣に心を吟味しなければならない。一致した辛抱強い祈りがあるべきである。そして信仰を通して神のみ約束をわがものと主張すべきである。昔のように体に荒布をまとうのではなく、魂の深いへりくだりがあるべきである。…わたしたちは神の力強い御手の下に自らをへりくだらせるべきである。このお方は真に求める人々を慰め、祝福してくださる。

 働きはわたしたちの前にある。わたしたちはそれに携わるであろうか?わたしたちは速やかに働かなければならない。着実に前進しなければならない。わたしたちは主の大いなる日のために準備していなければならない。わたしたちには失う時間はない。利己的な目的に携わっている時間はない。世は警告を受けなければならない。わたしたちは個人として、他の人々の前に光をもたらすために何をしているであろうか?神はすべての人にその人の働きを任された。すべての人に果たすべき役割がある。そしてわたしたちがこの働きをなおざりにするなら、自分自身の魂を危険にさらすのである。

 わが兄弟方よ、あなたがたは聖霊を悲しませ、それによって離れさせるのであろうか。あなたがたは祝福された救い主のご臨在のために準備ができていないために、このお方を締め出すのであろうか。あなたがたは自分があまりにも安逸を愛し、イエスがあなたがたのために負ってくださった重荷を負わないがために、魂を真理の知識なく滅びるままに放置するのであろうか。眠りから目覚めようではないか。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(ペテロ第一5:8)。(セレクテッド・メッセージ1巻「16章リバイバルへの召し」より126,127)

 

わたしたちは贖罪の日にいる

 

 わたしたちは大いなる贖罪の日、すなわちわたしたちの罪が告白と悔い改めによって、前もって裁きへ持ち出される時にいる。…

 1844年にわたしたちの大祭司は天の聖所の至聖所に入られ、調査審判の働きを始められた。死せる義人の裁判が神のみ前に再審されるために通過してきた。その働きが完成すると、裁きは生きている者の上に宣告されることになる。これらの厳粛な一瞬一瞬は、なんと貴重で重要なことであろう!わたしたちは一 人びとり天の法廷で保留されている判決がある。わたしたちは個人個人、実際になされた行為にしたがって裁かれることになる。型の奉仕においては、贖罪は地上の聖所の至聖所において大祭司によってなされ、民は神のみ前で魂を悩まし、 自分の罪を告白することが要求された。こうしてそれらが贖われて、除去されることができるためであった。この贖罪の日の本体、すなわちキリストが上の聖所でご自分の民のために嘆願しておられ、最終的な取り消すことのできない決定が すべての人の上に宣告されようとしている時にいるわたしたちに、これ以下のことが要求されることがあろうか。

 この恐るべき厳粛な時に、わたしたちの状態はどうであろうか?…わたしたちは自分たちがこの世界歴史のどこにいるかを知るために、聖書を調べないであろうか。このときにわたしたちのために成し遂げられつつある働きと、この贖罪の働きが進行している間、わたしたちが罪人として占めるべき立場に関して知的にならないであろうか。もしわたしたちが少しでも自分の救いに関心があるなら、決定的に変わらなければならない。わたしたちは真の悔悟をもって主を求めなければならない。自分たちの罪が除去されるために、魂の深い悔い改めをもってそれらを告白しなければならない。…

 わたしたちは速やかに恩恵期間の終わりに近づいている。すべての魂は、わたしは神のみ前にどうであろうかと尋ねなさい。わたしたちはどれほどすぐに自分たちの名前がキリストの唇に取り上げられ、自分たちの判決が最終的に決定されるかを知らない。どのような、ああ、それらはどのような決定であろう!わたしたちは義人として数えられるであろうか、悪人として数えられるのであろうか?(セレク テッド・メッセージ1巻「16章リバイバルへの召し」より124-126)

 

すべての妨げを取り除く

 

 魂の敵は人の思想を読むことが許されていない。しかし、彼は鋭い観察者であり、言葉に注目している。彼は行動に注意し、自分の力の及ぶ範囲に自らの身を置く人々の事情に合わせて、巧妙に自分の誘惑を適応させる。もしわたしたちが罪深い思想や感情を制止するために労し、それらを言葉や行動に表現しなければ、サタンは敗北する。なぜなら、彼は事情に合わせて自分のもっともらしい誘惑を準備できないからである。

 しかし、なんとしばしば自称クリスチャンが、自制の欠如によって、魂の敵に対して戸を開いてしまうことであろう!…これは悪感情を制し、サタンが有利に用いることのできるすべての言葉を制する努力があまりに少ないためである。疎遠な気持ちが生じるとすぐに、事態はすぐにサタンが調べられるように広められ、…破壊するためにへびのような知恵と技能を用いる機会を与えてしまう。すべての不和には大きな損失がある。…

 クリスチャンとして、わたしたちは道からつまずきの石を取り除くために働かなければならない。わたしたちはすべての障害を取り除かなければならない。すべての罪を告白し、捨てよう。こうして主の道が整えられ、このお方がわたしたちの集会に入ってこられて、ご自分の豊かな恵みを与えてくださるためである。世と肉と悪魔に対して勝利しなければならない。…

 すべての教会員から世の前に着実な光が輝きでることができる。こうして彼らは、「一体これらの人々は他の人々より何ができるのか?」と尋ねられるようなことにならないであろう。世への順応から身を引くこと、また悪と見られることはすべて遠ざけ、こうして反対者に何の機会も与えないことができるし、そうでなければならない。わたしたちは非難から逃れることはできない。しかし、自分自身の罪や愚かさのために非難されることがないように非常に気をつけるべきである。非難は、キリストのためであるべきである。

 主が弱っている教会と悔い改めていない教会員に聖霊を注ぐことがおできになるように、神の民がすべての妨げを取り除くことほどサタンが恐れているものはない。もしサタンが自分の思うとおりにできるなら、世の終わりまで大小いかなる覚醒ももう決して起こることはないであろう。しかしわたしたちは彼の策略を知っている。サタンの力に抵抗することができる。神のみ霊のための道が開かれれば、祝福がおとずれる。サタンは、天の窓を閉じて雨が地上に降るのを妨げることはできないのと同じように、神の民に下る祝福の雨を妨げることもできない。神の民が服従し、悔い改めた心で罪を告白し、それを取り除き、信仰をもって神の約束を求めるならば、悪人も悪霊も、神のみ業を妨げることはできず、神の民の集まりから神の臨在を取り去ることもできないからである。どんな誘惑であろうと、神に敵対する影響力であろうと、それがあらわれていても、隠れていても、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によ」って、神の民は打ち勝つことが出来る(ゼカリヤ4:6)。(セレクテッド・メッセージ1巻「16章リバイバルへの召しより122124)

 

教会の大いなる必要

 

 わたしたちの間における信心の真のリバイバルが、わたしたちのすべての必要のうちで最大にして最も緊急なものである。これを求めることがわたしたちの第一の働きであるべきである。主の祝福を得るための熱心な努力がなければならない。それは神がご自分の祝福をわたしたちの上に与えたくないからではなく、わたしたちがそれを受ける準備ができていないからである。…告白、へりくだり、悔い改め、そして熱心な祈りによって、神がご自分の祝福をわたしたちに与えてくださると約束された条件を果たすことが、わたしたちの働きである。リバイバルは祈りの答えとしてのみ期待される必要がある。民が非常に神の聖霊に欠乏している間は、み言葉の説教を感謝することができない。しかし、御霊の力が彼らの心に触れるとき、与えられる説教は、効果を及ぼさずにはいない。神のみ言葉の教えに導かれ、御霊の現れをもって、健全な分別を働かせて、わたしたちの集会に出席する人々は貴重な経験を得て、家に帰り、健全な感化力を発揮する準備ができるようになる。

 昔の旗手(標準を掲げる者)は祈りのうちに神と格闘することが何かを知っていた。そして聖霊の注ぎを享受した。しかし、彼らは活動の舞台から下りて行った。そしてだれが彼らの場所を埋めようとしているであろうか。起ころうとしている世代はどうであろうか。彼らは神へと改心しているであろうか。わたしたちは天の聖所で行われている働きに対して目覚めているであろうか。あるいは、わたしたちが起きる前に教会に何か押し迫る力が及ぶのを待っているであろうか。わたしたちは教会全体がリバイバルするのを希望しているであろうか。その時は決して来ない。

  教会には、改心しておらず、真剣な勝利する祈りにあって一致しようとしない人々 がいる。わたしたちは個人個人で働きに入らなければならない。わたしたちはもっと多く祈り、もっと少なく語らなければならない。…もしわたしたちが自分自身の心を探り、自分たちの罪を捨て去り、自分たちの悪の傾向を正すなら、自分たちの魂が虚栄に高ぶることはない。わたしたちは自らに信頼せず、自分たちの充 足は神からであるという永続的な自覚を持つ。

 わたしたちは外からよりも内からの方がはるかにもっと恐れるべきものがある。 力と成功への妨害は世からよりも教会自体からのほうがはるかに大きい。不信者たちは神の戒めとイエスの信仰を守ると公言する人々に、その矛盾のない生活によって、また彼らの信心深い模範と活発な感化力によって、彼らの代表しているみ事業を促進し尊ぶために、ほかの種類の人々よりももっと多くのことをなすと期待する権利がある。しかし、なんとしばしば真理を擁護すると公言する人々が、その前進を妨げる最大の障害物であることが判明することであろう!…(セレクテッド・ メッセージ1巻「16章リバイバルへの召し」より121, 122)

 

キリストの招き

 

 助けを求めてキリストのところにきた人々の多くは、自分で病気を招いた人たちであったが、それでもイエスは、いやすことを拒まれなかった。イエスから力が出てこれらの人々に入ると、彼らは罪を自覚し、多くの者がその病気と共に心の病もいやされたのである。

  カペナウムにいたひとりの中風の人はこういう人間のひとりだった。…この中風患者も、回復する望みを全く失っていた。その病気は罪深い生活の結果だったので、その苦しみは悔悟の念によって、いっそう、つらく感じられた。…

 しかしそのとき彼はイエスのみわざについて聞いたのである。自分と同じように罪深いあわれな人々がいやされていたので、自分も救い主のところにつれて行ってさえもらえば、きっとなおるのではないかと考え、しかし、自分の病気の原因を考えると、またも望みは失われるのだが、いやされる機会をなげ捨てるわけにはいかなかった。

 彼の大きな欲求は罪の重荷から救われることであった。そのため、イエスにお目にかかってゆるしの確証を得、天からの平安を得たいとせつに望んだ。このことが、かなえられれば、神のみ旨によって生きても死んでも満足だと思った。…

 そこで彼は自分を床のままイエスのところにつれて行ってくれるように、友だちにたのむと、友だちは喜んでこれを引き受けた。…「ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた」(ルカ5:17) 。…いのちの霊が集まった人たちの上をおおっていたが、パリサイ人や学者たちはそのご臨在に気がつかなかった。彼らは必要感を感じなかったのでいやしは彼らのためではなかった。「飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」(ルカ1:53)。…

 イエスはこの苦しむ魂の切望をよく知っておられたのである。…イエスは、信仰の最初のかすかな光が成長してキリストが罪びとの唯一の助け主であるという信念に変って行くのを見守り、イエスのみ前にこようとする努力と共にさらにその信念が強くなって行くのを見ておられた。キリストご自身が、この苦しむ人をご自分に引き寄せられたのである。そのとき救い主は「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」とおっしゃった…

 多くの人はこの不思議な事件のすべての動きを、息もつかずに興味をもって見ていた。多くの者は、キリストのみ言葉を、自分たちに対する招きと感じた。彼らの心は罪で病身になっていなかっただろうか。そしてこの重荷からのがれたいと熱望していなかっただろうか。(ミニストリー・オブ・ヒーリング48-50)

 

従順な子供として、聖なる者に

 

 「神はまた言われた『、われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造…(ろ)う』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:26、27)

 「似たもの同志が理解し合えるのである。」(祝福の山31)

 「似た者は似た者に惹かれる。似た者は似た者を正しく評価する。聖潔はそれ自体聖潔と、信仰は信仰と相結ぶ。…彼らの霊はキリストの霊と同化し、彼らはこのお方と一つになることを切望する。」(教会への証5巻705)

 「キリストを愛し、キリストに倣い、まったくキリストに頼ってこそ、わたしたちはキリストのみかたちに変えられるのである。」(キリストへの道95)

 「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」(創世記2:2,3)

 「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。」(出エジプト記31:13)

 「あなたは自分の足をみ言葉の真上に置き、わたしは信じるといわなければならない。わたしは信じる、わたしは賞与を目指して走り、わたしを妨げるものは一掃すると。わたしは自分の魂と神の間にさしはさむものを何も許さない。(説教と講和1巻309)

 安息日は、神とその民の間に存在する関係のしるしである。このお方の律法を尊ぶというしるしである。それはこのお方の忠実な臣民と違反者とを区別する。」(クリスチャンの奉仕261)

 「安息日をきよく守る人々にとってこれは聖化のしるしである。」(同上)

 「従順な子供として、…あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである。」(ペテロ第一1:14-16)

 

「わたしがあなたがたを愛したように」

 

 「まだ罪びとであったとき」キリストは、わたしたちのために死なれた。キリストはわたしたちが当然受けるべき待遇どおりにわたしたちを取り扱われない。わたしたちの罪はとがめられるのがあたりまえであるが、キリストはそうなさらない。長い間わたしたちの弱さ、無知、忘恩、わがままを忍耐された。道に迷い、心をかたくなにし、聖なるみ言葉をおろそかにしたにもかかわらず、なおそのみ手はさし伸べられている。

 神はイエス・キリストを通じて罪深い、堕落した人類に手をさし伸べて招いておられる。神はすべての者を受け入れ歓迎される。最も罪深い者をおゆるしにな ることは神の栄えである。…

 人類を神に連れもどすためにご自分の生命をお与えになったキリストにとって、人間はみな愛の関心の対象となる。…

 救い主の模範は、誘惑され、過失に陥っている人に対して奉仕をするわたしたちの標準でなければならない。救い主がわたしたちに示されたのと同じ興味、優しさ、忍耐を他の人に表わさなければならない。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と、キリストは言われている(ヨハネ 13:34)。…

 キリストとわたしたちを結びつける一番強いきずなであるべきもの、すなわち堕落して、苦しんでいる罪深い人や罪とがに死んだ人々をあわれむという点で、わたしたちはキリストと少しも一致していない。人間同志の不人情はわたしたちの最大の罪である。多くの人はキリストの優しい、偉大な愛を少しも表わさずに、神の正義を示していると思っている。…

 キリストがお呼びになったのは無頼漢、取税人、罪人、世人に軽蔑されている人であって、キリストのやさしい同情がこうした人をご自分に引きつけたのである。キリストがお認めにならなかった階級とは、うぬぼれて他人を見下げていた人々であった。…

 キリストのもとに来るように人に懇願し、力説する精神が聖書全体にどんなに表現されているかに注意なさい。わたしたちは個人的にも公にも、無限に価値のある機会をすべてとらえて説きすすめ、人を救い主に導かなければならない。キリストを見上げ、無我と犠牲のその生涯を受け入れるように全力を尽してすすめなければならない。(ミニストリー・オブ・ヒーリング135-139)

 

キリストの再臨を迎える準備

 

 愛する兄弟姉妹がた。われわれは、キリストが間もなく来られることと、われわれは、罪の世界に伝えるべき最後のあわれみのメッセージを持っていることを、心から信じているだろうか。われわれの模範は、正しいものであろうか。われわれは、自分たちの生活と聖い行状とによって、われわれの卑しいからだをご自身の栄光のからだと同じかたちに変えてくださるわれわれの主、救い主イエス・キリストの輝かしい出現を待ち望んでいることを、周囲の人々に示しているだろうか。われわれは、これらのことを十分に信じ、理解してはいないのではないかと思う。われわれが宣言している重大な真理を信じる者は、その信仰を実行しなければならない。...

 時には、勝利を得ようと努力して、勝利することもあるが、もしもわれわれがそれを持続させずに、...誘惑に耐えられ...ないならば、われわれは、黄金よりも尊い信仰の試練に耐えることができない。...

 われわれのなすこと言うことがすべて、ただ神の栄光のためでなければならない。もしわれわれの心が、次の重要な言葉に深い感動をおぼえ、常にそれを心に留めているならば、われわれは、そうたやすく誘惑に陥ることはなく、われわれの言葉は、少なく、よく選ばれたものとなるであろう。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはい やされたのだ」「人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう」「あなたは・・・わたしを見ていられる」。

 われわれは、こうした重要な言葉を思い、あわれなわれわれ罪人が、ゆるされてイエスの尊い血によって神に贖われるために、イエスが苦しまれたことを思いおこすときに、われわれは、神に強く心を動かされて、...このようなことを常に心に留めているならば、自己は、その誇りとともに低められて、その代わりに、他人の譴責にも耐えて、軽々しくいきどおらない、幼児のような単純さが与えられる。わがままな精神は、心を支配しなくなる。

 真のキリスト者の喜びと慰めは、天になければならず、また、そうなるのである。来世の力と、天の喜びを味わった人々の心の熱望は、地上のことでは満足しない。このような人々は、ひまな時にも、なすべきことを十分に見いだす。彼らの心は、神にむかって引かれる。宝のあるところには、心もあるのであって、彼らは、自分たちが愛し礼拝する神との、楽しい交わりをもつのである。...彼らが、このように高く、清く、聖なることを考えているときに、天は、彼らに近づく。そして、彼らは、聖霊の力を感じる。そして、これは、彼らをますます世から引き離して、彼らの故郷である天に関することに、彼らの慰めと大きな喜びとを感じさせる。神と天とへ引きつける力は、ますます強くなり、魂の救いと神に栄誉と栄光を帰すという大目的から、彼らの心を引き離すことができるものは、何もなくなるのである。(初代文集210-213)

 

キリストのみ名によって

 

 福音の任命は、キリストの国の宣教大憲章である。弟子たちは人々のために熱心に働き、すべての人人に恵みの招待状を渡さなければならなかった。彼らは 人々がやってくるまで待つのではなく、使命を携えて人々のところに行かなければ ならなかった。

 弟子たちはキリストのみ名によって、働きを進めて行かなければならない。彼らの言葉や行動はみ名にしっかり結びつけられていて、生き生きした力を持ち、それによって罪人たちが救われるのでなければならない。彼らの信仰は、あわれみと力の源であられるかたに集中する。そのみ名によって彼らはみ父に嘆願し、答えをいただくのであった。弟子たちは、父、み子、聖霊の名によってバプテスマを施さなければならない。キリストのみ名は彼らの合い言葉、彼らを区別するバッジ、一致のきずな、彼らの行動方針を支持する権威、成功の源となるはずであった。キリストの名が書かれていないものは、神の国では認められるはずはな いのである。

 キリストは、わたしの名によって出て行き、信じる者をすべて教会に集めよと 弟子たちに言われたとき、単純さを保つことの必要を彼らに明らかにお示しになった。見栄や見せびらかしが少なければ、それだけ彼らの感化は大きいのである。弟子たちはキリストがお語りになったような単純さで語らなければならなかった。彼らはキリストから教えられた教訓を、聞く者たちの心にしっかり刻みつけなけれ ばならなかった。

  キリストは弟子たちに、彼らの働きが容易であるとは言われなかった。…主は彼らと共にいること、そして彼らが信じて進むならば、彼らは全能者の盾のもとに行動することを約束なさった。キリストは彼らに、雄々しく強くなるようにとお命じになった。み使いよりも強い、天の軍勢の将が彼らの隊列の中におられるからである。キリストは彼らの任務遂行のために万全を期し、その成果の責任をみずからお取りになった。主のことばに従い、主と連携して働く限り、彼らに失敗はなかった。キリストは、すべての国民のもとへ行けと弟子たちにお命じになった。地球上の人の住むところにはどこへでも行き、そこにもわたしがあなたと共にいることを確信しなさい。信じて、自信をもって働きなさい。わたしがあなたを見 捨てるような時は決して来ないからである。わたしはいつもあなたがたと共にいて任務を果たすのを助け、あなたがたを導き、慰め、きよめ、支え、人々の注意を 天に向けさせる言葉を上手に語らせてあげよう。(患難から栄光へ上巻22-24)