聖霊の降下「前と後の雨」⑥


9.後の雨のための準備 

 「だから、主のみ前から慰めの時がきたときに、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒行伝3:19英文訳)。 

 「すると、ペテロが答えた、悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:38)。 

 私たちはこの聖句から、聖霊の賜物を受けるための準備段階を理解することができます。悔い改め(repentance)と、本心に立ちかえること(conversion)と、罪のゆるし(remission of sin)と、これに伴って罪をぬぐい去ること(blotting out of sin)の経験が必要なのです。これについて証の書は次のように語っています。 

 「聖霊は働きをするのに用いることができる通路を待っておられる。…神の霊は器に聖霊を受ける用意ができ次第、教会に注がれるのである」(彼を知るために330)。 

 また、わたしたちは後の雨は「教会」に注がれるが、その準備はまず、個人ひとりびとりの経験であるべきだということを心に銘記すべきです。なぜかと言えば、「準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない」と言われているからです(各時代の大争闘下巻224)。

 そこで、わたしたちがはっきり理解すべき段階について確認していきましょう。 
a.悔い改め(repentance): 
「悔いのない悔い改め」(第ニコリント7:9, 10)。 
「改革が行われないようなら、真の悔い改めとは言えない」(各時代の大争闘下巻18)

b.本心に立ちかえること:改心(conversion) 
「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて」(イザヤ 55:7)。 
「彼らの大きな必要は、キリストがニコデモに説明された変化すなわち霊的新生であり、罪からのきよめであり、知識と聖潔とを新たにされることであった」(各時代の希望上巻204)。

c.罪のゆるし(remission of sin): 
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば…その罪をゆるし」(ヨハネ第一1:9)。  
「主は泣いて悔い改める者を決してしりぞけられない。主は明らかに示すことがおできになることをだれにでも全部お告げになることはないが、主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。主はゆるしと回復を求めてみもとに来るすべての者を快くゆるしてくださる」(各時代の希望中巻396, 397)。 
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、 わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」(テトス3:5~7)。

 ですから、わたしたちにとって最も必要かつ急を要する準備というのはこの悔い改めと本心に立ちかえること(改心)、そして罪のゆるしの経験なのです。これについて、次の証をお読み下さい。 

「今日あなたがたは天の露を受ける準備、すなわち後の雨の注ぎを受ける準備ができるように、自分たちの器を清めなければならない。なぜなら、後の雨が注がれるが、神の祝福はすべての汚れから清められた一人一人の魂を満たすからである。わたしたちが、主のみ前から来る慰めの時にふさわしくなるために、すなわち聖霊のバプテスマにふさわしくなるために、私たちの心をキリストに明け渡すことが、今日のわたしたちのはたらきである」(レビュー・アンド・ヘラルド1892年3月22日)。

「わたしは、多くの人々が、必要な準備をおろそかにしていながら、 主の日に立ち得て神のみ前に生きるにふさわしいものとなるために、『慰めの時』と『後の雨』とを待っているのを見た。ああ、わたしは、なんと多くの人々が、悩みの時に、避け所がないのを見たことだろう。彼らは必要な準備を怠った。だから、彼らは、聖なる神の前に生きるのに適したものと彼らをするためにすべての者が待たなければならない慰めを、 受けることができなかった。…すべてのからみつく罪、誇り、利己心、世を愛する心、すべての悪い言葉や行為に勝利するのでなければ、誰一人として、「慰め」にあずかることができないのを、わたしは見た。であるから、われわれは、ますます主に近づき、主の日の戦いに立ち得るために必要な準備をするように、熱心に求めなければならない。神は聖であられて、神のみ前に住むことができる者は聖なる者だけであることを、すべての者が覚えているようにしよう」(初代文集149, 150)。 

ですから、わたしたちが覚えるべきことは、「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、 あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』」ということです(使徒行伝 2:38)。これが、すなわち、わたしたちが後の雨を受ける条件なのです。 


d.罪の除去、もしくはぬぐい去る(blotting out of sin)とは何か? 

 「贖罪の日に、大祭司は会衆のための供え物をとり、血をたずさえて至聖所にはいり、それを律法の板の上の贖罪所に注いだ。こうして、罪人の生命を求める律法の要求が満たされた。次に、祭司は、仲保者として自分の上に罪を負い、聖所を出てイスラエルの罪の重荷をになった。彼は幕屋の戸口でアザゼルのやぎに手を置き、『イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせた』。そして、これらの罪を背負ったやぎが送り出されるときに、罪はやぎと共に、永遠に民から切り離されたものと見なされた」(人類のあけぼの上巻420)。 

 「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。 


e.この働きはいつから始まったのか? 

 「審判が指定されていた時、すなわち、2300日の終わる1844年に、 調査と罪の除去の働きが始まった」(各時代の大争闘下巻219)。 
 「こうして、新しい契約が完全に成就する。『わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』『主は言われる、その日その時には、 イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない』(エレミ ヤ31:34, 50:20)。…調査審判と罪をぬぐい去る働きは、主の再臨の前に完了しなければならない。死者は、書物に記録されたことによって裁かれるのであるから、彼らが調査されるその審判が終わるまでは、彼らの罪はぬぐい去られることはできない。しかし、使徒ペテロは、はっきりと、 信者の罪は、『主のみ前から慰め(原文ではrefresing〔活気づけ、回復の意〕)の時がくるときにぬぐい去られる。そして『キリストなるイエスを、 神がつかわして下さる』と言っている(使徒行伝3:19参照。同20節)。調査審判が終わると、キリストは来られる。そして、たずさえて来た報いを、それぞれの人の行ないにしたがってお与えになるのである」(各時代 の大争闘下巻217, 218)。

 この証から、わたしたちは、罪の除去が行われる出来事について理解することができます。ここに「調査審判―罪の除去―キリストの再臨」という過程、すなわち救いの計画の最終過程が表されています。しかし、 わたしたちにとってさらに重要なことは、この働きが各個人の救いとどのような関係があるかということであり、この働きが個人的には、いつ行われるかということです。 

 「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、 神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである」(各時代の大争闘下巻215, 216)。

 「主はご自分の民が彼らのためにこれほど豊かに備えられた偉大な救いについて無知でいることなく、信仰において健全であることを望んでおられる。…キリストは、十字架上でご自分の身に罪の重いのろいを負って、罪に終りを告げてくださった。そして、ご自分を個人的な救い主として信じるすべての者から罪ののろいを取り除いてくださった。主は心の内にあ る罪の支配権を終わらせ、信者の生涯と品性は、キリストの恵みの純粋な特性を証する。イエスはご自分に求める者に聖霊をお与えになる。なぜなら、すべての信者が律法ののろいと責めから解放されるのと同様に、罪の汚れから救い出されるために、それが必要とされているからである。真理によって聖別して下さる聖霊の働きによって、信者は神の国にはいる のにふさわしい者とされる。なぜなら、キリストはわたしたちの内に働かれ、このかたの義がわたしたちに着せられるからである。このような聖化の過程がなければ、だれも神の国に入る資格は得られない。…そして、信者は、霊的成長においてイエス・キリストの満ちみちた徳の高さに至る まで、キリストのみかたちにかたどられる。このようにして、キリストは罪ののろいに終りを告げ、信者を罪の行動や感化から自由にして下さるのである」(セレクテッド・メッセージ一巻394~395)。