純子は、天野司とシンガポールに新婚旅行に来ていた。中学の頃から交際し、ようやく結ばれた二人はマリーナベイ・サンズのインフィニティプールで写真を撮り、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの夜景に酔い、チャイナタウンの屋台でチキンライスを分け合った。

三日目の午後。二人はオーチャードロードのショッピングモールで時間を潰していた。
司がトイレに行っている間、純子はエスカレーター脇のベンチに座っていた。向かいのカフェのテラス席に、見覚えのある姿があった。菊地英治。ひとみの夫だったが、突然失踪し、その後不審な死を遂げた人物。彼の周囲には、誰も近づきたがらないような、冷たく張り詰めた空気が漂っていた。
「あれって英治さん……?」と声をかけようと近寄ろうとしたその瞬間、英治のスマホが鳴った。彼は無表情で電話に出る。そして、流暢な中国語で話し始めた。純子の中国語は片言程度だったが、それでもいくつかの単語が耳に飛び込んできた。
「已经安排好了……不要再联系……我会处理」
(もう手配は済んだ……もう連絡するな……俺が処理する)
声は低く、抑揚がほとんどない。
いつもの穏やかな英治の声とは別人のようだった。純子は足がすくんだ。話しかけられない。
英治と思われる人物は電話を切り、席を立って、そのまま人混みに溶け込むように歩き去っていく。
司が戻ってきたとき、純子は笑顔を作って言った。
「遅かったね。もうちょっと歩こうか」
それきり、何も言わなかった。

帰国して一ヶ月後。純子はひとみと久しぶりに会った。
ひとみは明るく振る舞っていたが、無理に笑おうとしているのが見ていて辛い。
「純子、結婚おめでとう。シンガポールどうだった?」
「うん、すごくよかった。特にシンガポールの動物園はすばらしかった。」
ひとみは小さく笑って、
「そうなんだ……。英治くんもいつか一緒に行こうって言ってたな」
その言葉に、純子の胸が締め付けられた。英治の姿が脳裏に蘇る。
サングラス越しの冷たい目。流暢な中国語。誰も寄せ付けない空気。純子は、喉に詰まったものを飲み込んだ。
ひとみはミルクティーを飲み干し、
「私、そろそろ帰るね。また連絡する」
立ち上がるひとみの背中を見送りながら、純子は静かに目を閉じた。言えなかった。英治が生きているかもしれないこと。
でも、あの男はもう、ひとみの英治ではないかもしれないこと。言ったら、ひとみを壊してしまうかもしれない。
ひとみは知らずに、自己嫌悪と喪失を抱えて生き続け、純子は知ってしまったことを、ただ一人で抱え続ける。