中山ひとみは、長い片思いの末に菊地英治と結ばれた。あの瞬間、彼女の人生は花開いたように思えた。英治は大学時代からの憧れの人で、穏やかで優しく、いつもひとみの心を温かく包み込んでくれた。
二人は都心から離れた多摩川近くで新生活を始め、毎朝一緒に彼が入れてくれる紅茶を飲み、夜は肩を寄せ合ってゲームをする。そんな平凡だが満ち足りた日々が、彼女のすべてだった。
結婚から一年が経ったある日、英治はいつも通り出勤した。ひとみは朝食の片付けをしながら、彼の後ろ姿を見送った。
「行ってらっしゃい。」
英治は振り返って微笑み、
「今日は早く帰れると思うよ。」と答えた。だけど日が暮れても、英治は帰ってこなかった。ひとみは時計を何度も見つめた。七時、八時、九時……。こんなことは初めてだった。英治は仕事が遅くなる時は必ず連絡を入れるのに。不安が胸に広がり、彼女はスマホを握りしめた。何度か電話をかけ、メッセージを送ったが、応答は一切なかった。留守電に繋がる声が、ただ虚しく響くだけ。ひとみは窓から外を覗いた。雨が降り始め、街灯がぼんやりと光る夜道に、彼の姿はなかった。
それから三日が過ぎた。ひとみはほとんど眠れず、食欲も失っていた。友人や家族に相談し、警察に届け出も出したが、進展はなかった。心臓が早鐘のように鳴る中、ようやく電話が鳴った。相手は警察だった。
「ご主人の菊地英治さんの車が、首都高速で起きた多重事故の現場で見つかりました。」
ひとみは震える手で受話器を握った。事故は三日前の夜に起こったという。激しい衝突で複数の車両が炎上し、英治の車もその中にあった。警察署に行き、そこで車内から見つかった彼の物と思われる腕時計が渡された。
それはひとみが彼の誕生日に贈ったものだった。針は止まり、ベルト部分に血痕がついていた。警察の説明によると、車内から本人は発見されなく、事故の混乱で行方が分からないままで、生死不明。ひとみはその場に崩れ落ち、ただ泣きじゃくることしかできなかった。腕時計を抱きしめ、英治の匂いを嗅ごうとしたが、何も残っていなかった。幸せだった日々が、突然の闇に飲み込まれた。英治はどこにいるのか? 生きているのか? それとも……。答えは永遠に不明のまま、ひとみの心に深い影を落とした。彼女は毎晩、止まった時計を見つめ、失われた時を思い続けるのだった。