どうも。今回話したい事は、テイルズファンの間で結構敏感な話題です。単刀直入と言うと、この文章はゼスティリア原作の弁護となります、そして比較対象として、アニメ版のザクロスも話します。直接言います。大体改善と思われたアニメ版、私にとっては改悪版です。この文章は、まずアニメ版の改悪した所をメインにします、そしてその改悪によって原作の良い所を引き出します。この文章はあくまでシナリオについての個人的な感想となります。この話題に対して敏感な方々は、ブラウザバックを勧めます。

では始まります。

アニメテイルズオブゼスティリアザクロスの改悪所は、おおよそ三つあります:

-アリーシャのメアリースー化
-万能化した導師
-勧善懲悪の明確化

まずはアリーシャのメアリースー化について。先に言っておく事はあります。私は原作のアリーシャが好きです。

原作のアリーシャは欠点だらけ、そして人生ハードモードなキャラクターでもあります。ファンから不遇とも思われるか、私はそれがキャラクター描写たと思います。アリーシャの「不遇」は巨体的にどんな感じかと言うと、
→過度な理想主義によって民から反発を受ける
→手先が不器用でエドナにいじられる
霊応力が足りない故従士になれない
政治に弱い故反対派に手も足も出ない
→師匠であるマルトランに裏切られ、そして自らマルトランの命を奪う

と言う、どう見ても辛い人生です。それに対して、アニメ版のアリーシャは、
→理想主義でも、部下と民から支持を得れる。反発の描写は一切いない。
→従士になる前で憑魔化したルナールと渡り合える
霊応力が高い故従士反動はない
→政治家と渡り合えるほどの人望
→そもそもマルトランは憑魔ではない為、裏切られない。

アニメ版からの補正故、一部過激なファンからは「真の主人公」とも呼ばれます。でも、私から見ると、この主人公補正のせいで、逆にアリーシャの魅力とキャラクターとしての完成度が無くなりました。

原作では、アリーシャは無力です。憑魔を浄化するどころか、自分の国の平和を守るだけで精一杯です。それでも、己の無力さを悩みながら、アリーシャは世界平和の為に諦めなかった。できない事が沢山でも、出来る事に力尽きる。師匠のマルトランを殺した時は一時自暴自棄になっても、戦争が勃発寸前から、すぐに戦争の調停に戻る。最終的は、ただの人間として、ハイランド軍とともにドラゴン討伐を加勢する。そのあとはハイランドの代表として、ローランスと停戦を相談する。アリーシャは結局、人間の出来る事で世界を平和に導く者となる。

幾ら無力でも、理想を諦めなかった、それが私が好きの理由です。作中では特にアリーシャの無力さと甘さを強調していた為、アリーシャの平和ヘの願いはどれくらい強いか実感出来る。そして、コレはあくまで個人的な解読ですか、物語中、アリーシャの立ち位置は、霊応力の低い一般人を代表するキャラクター、そしてアリーシャもこの立ち位置を活かして、人間社会の平和に力尽きた。

コレと比べると、アニメ版のアリーシャは強すぎで、同じ平和を願うキャラクターでも、ただのどこでも見えるアニメ主人公と変わらないから、逆にキャラクター性が感じない。

そしてアニメヘの不満点は、アリーシャヘの贔屓です。その中特に明らかのは、第十二話でアリーシャが刺される辺りとそのあとハイランド王の死亡シーンです。

第十二話では、アリーシャが反対派ハイランド兵に囲まれ、ロゼがハイランド兵を殺しそうな時、アリーシャが彼女を止めた、そしてアリーシャ後ろから刺された。アリーシャを刺した兵士は恐怖を感じる、そしてそんな彼に、アリーシャは「剣の血を拭け、剣が錆びるそ」くらいな一言でした。

このシーンに対して、私の不満点は:  兵士さんお前何後悔してるんだ?

アリーシャを刺すのはお前の選択でしょう?あの時は混戦でもないのに、アリーシャはロゼとバンバン会話する暇もあった、つまりアリーシャを刺すのは完全に兵士個人の意思。お前何怖がってるんの?一般人なら分かるけどお前兵士だろう?殺すのは見慣れた物でしょう?

私から見ると、このシーンはアリーシャが自分を傷つけた人も許す寛大な心の持ち主を強調していただけのシーンである。

そしてハイランド王の死亡の辺りは、バルトロ卿が自ら剣を持って、アリーシャを殺しそうとしている。アリーシャはバルトロ卿を傷つけたくない為ただ攻撃を避ける、そして転がった。ハイランド王をそんな無防備なアリーシャを庇う為致命な一撃を受けて死んた。それでもアリーシャはバルトロ卿を攻撃しなかった。

ここの問題は、アリーシャは武器を持っていないでも、ガントレットは着ている、しかも相手は武術素人なバルトロ卿。バルトロ卿を殺せず無力化する手段は幾らでもあるにもかからわず、アリーシャは攻撃をガードすらしなかった。

個人的には、このシーンはただアリーシャは父親の死亡に拘れない強い精神の持ち主を表現したいだけ。そもそも王は死ぬ筈もないのに無理やりアリーシャヘの贔屓にしか見えない。

あくまで個人な感想ですか、強い、完璧こそ良いキャラクターたと、私は思わないです。ゲームのアリーシャは欠陥だらけで、出番も少ないけど、キャラクター性は僅かな登場で十分伝わっている。それに対して、アニメ版のアリーシャはただの強い女性として仕上げた結果、あんまり独自性を感じないキャラクターとなっていた。


次に話すのは万能過ぎるスレイです。ゲームの設定では、導師の力を持っても、穢れが強すぎる憑魔は浄化できない、そしてドラゴンは絶対浄化できない。コレはゲームヘの酷評の一つでもあるか、私は逆にそれが原因で原作が好きです。なぜなら、原作のメッセージは、たとえ導師でも、できない事があると言うことです。

それに対して、アニメ版では、浄化できない憑魔(枢機卿を始まった事件)はそもそも存在しない、ドラゴンもヘルダルフもスレイによって浄化された。それは私がアニメ版が嫌いな一番な理由です。原作に置ける一つ大きなメッセージは、理想を持っても、現実と向き合わなければならない。厳しい現実(浄化できない憑魔)に対して、物語の序盤では理想主義なスレイはそれを向き合わないといけない(殺すしかない)。そもそもゲームの流れは理想を持つあまちゃんが少しづつ厳しい現実を認識し、己の無力さを感じながら、自分が理想の為の出来る事を探し出すという凄く現実味のあるシナリオです。

それと比べると、そもそもアニメ版の現実は厳しくない。導師になったら皆を救える。スレイ自身も万能過ぎる為、己の無力さを感じる描写はいない。しかも、ドラゴンを浄化する方法はただの精神論。アニメに置ける浄化という定義は「相手の穢れを受け入れる」と言う手段。それまでは良いだが、今までドラゴンを浄化した事がない理由は今までドラゴンの穢れを受け入れれる導師はいなかったという強引過ぎる理由。アニメでのドラゴン浄化シーンは、導師スレイと従士二人だけでドラゴンの浄化を出来た。それなら、今までの導師伝承は何なんだ?ベルセリアからの千年間、もっと数多くな導師がいた時代もあった、そう考えると、もっと数多くな従士が存在した筈です、それでもドラゴンの穢れの量を受け入れれなかった。それなのにスレイ達三人だけで出来る?しかもアニメの設定ではアリーシャもロゼもまだ神依ができない。そのメンズだけでドラゴンを鎮めるなら、今までの導師は全部無能なの?それでもスレイは今までの全ての導師を越える超人?主人公は前代未聞の才能の持ち主と言う、いかにも王道な設定が見せたいのが分かるか、その為にただ無理やりな理由で主人公の強さを表現するのは、結果不自然にしか見えない。逆にゲーム版では、主人公の限界がはっきりしている為、シナリオはただ主人公をべた褒めではない。原作では爽快感が欠けるか、主人公はより人間らしく描かれている.その為、私はアニメ版より原作の方が好んています。

最後に話すのは、アニメ版ゼスティリアのシナリオの勧善懲悪の明確化です。はっきり言います、この点については、私がテイルズファンとして一番見たくない展開です。でもファンタジア以降のテイルズは大体勧善懲悪な物語から、逆に善悪について曖昧なゼスティリアがテイルズファンから拒まれるかもしれない。

アニメ版で改悪されたエピソードは大体以下:
→風の傭兵団事件でコナン王子の完全悪人化
→偽エリクシール事件の意味が全く無くなる
→主人公=善人

まずは風の傭兵団事件の改悪。原作では、風の傭兵団がローランス王家に雇われ、旅を止まった。風の傭兵団と一緒にいたデゼルの加護「旅を恵まれる」事がそのせいで、悪効果が出す、傭兵団周りの穢れ発生が倍増。最終的には雇う主のコナン王子が憑魔化して、傭兵団に冤罪を掛ける。傭兵団はそのせいで壊滅、団長も亡くなった。アニメ版の流れは大体同じだが、デゼルの加護の逆効果の設定自体が無くなった。

この小さな改変だけで、事件全体のメッセージ性が無くなった。原作では、デゼルが穢れの発生源という描写が有っても、そもそもコナン王子は澄みきった心の持ち主なら、幾ら穢れが強いでも憑魔化しなかった筈です。つまり、原作に置ける風の傭兵団の壊滅の原因は、誰一人だけの悪意が導いた結果ではない。デゼルはあの時で隣にいたサイモンが穢れの発生源たと確信し、サイモンへの復讐に囚われっているか、皮肉でもデゼルが自分の善意故、自身が自分の復讐相手の一人となっていて、復讐相手たと確信したサイモンは全く無関係という虚しさ溢れるシナリオとなっている。

それに対してアニメ版では、デゼルの参加が抜かされたせいで、傭兵団を裏切るのはコナン王子一人の責任となっている。そのせいで、コナン王子がただの悪人とされていた。そんな悪人でも殺しちゃいけないと思うスレイは、より善人として際立っている、同時に、この原因で復讐の虚しさの描写が無くなった。

次話すのは偽エリクシール事件です。原作では、ローランス教会の教王が貧乏な辺境村ゴドジンの村人の生活費の為に作った物。偽エリクシールは依存性がある為、一種類な毒品ども言える。アニメでは、多分沢の都合で、事件が大幅カットされ、事件の黒幕はコナン王子に変更し、目的もただ自分の利益となっている。そのせいで、原作に置ける教王の善意故の悪行、黒でも白でもない行為が、ただの腐った王子の悪行となっている。考え深いシナリオは台無しとなった、そしてここもまだコナン王子の悪人化が強くなった。アニメには沢の都合があるとは分かるか、こうやって原作のシナリオを改悪より、まるごとカットされる方が良かったじゃないか?

最後は私が一番嫌いな改悪:主人公=善人

原作では二つな価値観がある:
→スレイの「人を生かす」
→ロゼの「人を殺す」

多くなプレイヤーからは、原作はロゼの価値観ばかり尊重しているという評判があるだが、果たしてそうなのか?ゲームで浄化できない故殺さるを得ない憑魔はたったの四体、それ以外のは全て浄化された。数だけ言うなら絶対スレイの価値観が尊重されている。しかも、憑魔を殺すと言ってもいきなり殺す訳ではない、まずは浄化する。本当にどうしょうもない時のみが殺す。本編のラスボス戦でも、ヘルダルフを殺す同時にマオテラスを浄化すると言う、実際両方の価値観も表現している。

それに対して、アニメ版こそがが一方的にスレイの価値観を尊重し、ロゼの価値観を一方的に否定し続ける、しかもロゼがその価値観を否定する張本人である。

原作では、ロゼが人殺しを罪たと考えても、自分は必要悪たと認識している。そもそも、ゲームでの浄化できない憑魔のシナリオは、ある意味先述の教王と同じ、善意故の悪行である。憑魔から生み出す災禍を解けるのが善行、でも憑魔を殺さないとそれができない、そして人殺しは罪。つまり、スレイ達が憑魔を殺すのは、善でも悪でもある行為。スレイ達も教王と同じ、黒も白もない状態となっている。原作終盤でハイランドとローランスの再開戦も、主人公達が憑魔化した枢機卿を殺したのはきっかけである。つまり、原作に置ける、主人公側=絶対な善人とは言い切れない。

アニメでは、スレイは人殺しと言う行為を強く反発する、そして憑魔は全部浄化すると言う信念を持つ。何故かスレイのカウンターの筈のロゼが、スレイばかりを肯定している。殺すしかない状況はアニメに存在しない、スレイも人を殺したシナリオがいない。最終的に、ヘルダルフもスレイに浄化された。つまり、スレイの行為は善行だけ、スレイも常に白な状態となっている。こうなると、主人公側=正義な展開となっている。善悪をはっきり分かれている為、原作での善悪ヘの問うそのものが無くなった。

以上は私がテイルズオブゼスティリアザクロスに対して主な不満点ですた。他にもあるが、やっぱ以上の、原作ヘの評判に対する答えが、改悪の元凶でもある。はっきりいうと、深く考えなくでも楽しめる、ただの爽快な英雄物語が見たいなら、絶対アニメの方が向いている。でも、それもまだ私の不満である。原作のシナリオは人選ぶだが、そこには一般RPGにいない、考え深いメッセージがある。その為、テイルズオブゼスティリアに置いて、私は原作派です。