苦節から輝いた人 | クリス松村オフィシャルブログ Powered by Ameba


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四半世紀前、25年前の洋楽界。




1984年12月22日付でマドンナがついに




「ライク・ア・ヴァージン」で初の1位に輝いて、




それから旋風が吹き荒れるわけですが、




そんな時期、ただ一度だけポップチャートを賑わせた




歌手「ティーナ・マリー」さんの訃報が飛び込んできました。




私の大好きな歌手、故・リック・ジェームスに見いだされて、




苦節5年のようやくのポップヒットが「ラヴァー・ガール」。




白人でありながらブラック部門で大活躍の方でしたので、




これは、あくまでもポップチャート上の事ですが、




運悪く最高位4位止まりになってしまいました。




何と14週目にやっとベストテン入りして16週目が最高位。




まあ、ダンス部門は女性ではマドンナがいましたし、




その時の1位がフィル・コリンズにマドンナにREOスピードワゴン、




そしてUSAフォー・アフリカですから、仕方ないですね。




マドンナは「マテリアル・ガール」「クレイジー・フォー・ユー」の




2曲が同時にトップ5という勢いですからねー。




ちなみに彼女は実はシンガーソングライターでしたので、




ご自身の曲は自分で書かれていました。




ブラック部門では、数多くのヒットをはなった歌手でした。





余談ですが、




1985年は、1月にフィリップ・ベイリーとフィル・コリンズの




「イージー・ラヴァー」が大ヒット、続いてビリー・オーシャンの




「ラヴァー・ボーイ」が大ヒットしていたので、




「ラヴァー」という言葉が入ったタイトルのヒットが続いていました。




ダンスにバラードの名曲が本当に充実していた時期でした。




54歳、若すぎます。







ブログを書いている途中でまた訃報が入ってきました。




1981年にデビュー曲「奥飛騨慕情」(発売は80年)が




いきなり148.5万枚の大ヒットになった




盲目の歌手、竜鉄也さんが逝去されました。




ミリオンセラーで1位になれなかった曲。




昭和歌謡の中では、2番目に不運な2位止まりの曲でした。





どちらのヒット曲も1位には、なれなかったけれど忘れない名曲です。





ご冥福をお祈りいたします。