今日は日曜。伯母の誘いで食事へ。

肉がやわくて旨い。

さんまるこ亭のとんかつ定食+🍺

伯母元気に退院できて良かったです😊


夜は男子バレーアジア予選テレビ観戦📺

日本×イラン どうなるかてへぺろ






霧島岑神社は、本当に霧島六社権現の「本宮」だったのか?


小林に暮らす者としては、「そうであってほしい」と思ってしまいます(笑)。


でも郷土史で一番怖いのは、期待する結論に合わせて歴史を作ってしまうこと。

そこで今回は、分かっていることと伝承を分けながら考えます。


まず、霧島六社権現とは何か。

中世の霧島山では、日本古来の神への信仰に仏教や修験道が結びつき、山を取り囲むように複数の信仰拠点が形成されました。


後に「霧島六社権現」と呼ばれるのが、現在の霧島岑神社、霧島神宮、霧島東神社、狭野神社、東霧島神社、夷守神社につながる六社です。


そして霧島岑神社の由緒では、性空上人が霧島山麓の五方に社を整え、もともとの「本社」霧島岑神社と合わせて六社権現としたと伝えています。


そのとき霧島岑神社は、

「霧島中央権現」

現在の霧島神宮は、

「西御在所霧島権現」

と呼ばれたとされます。


「中央」と「西御在所」。

この名称だけを見ると、どうしても霧島岑神社が中心だったように感じます。


しかし、「中央と呼ばれた=六社すべてを支配する最高位の本宮だった」と直ちに断定することはできません。


六社権現の成立そのものに性空上人伝説が深く関わっており、いつ、どの段階で六社が現在伝わる形に整理されたのかについても慎重な検討が必要だからです。


ところが、霧島岑神社にはそれ以前の歴史にも気になる材料があります。


837年の朝廷の記録『続日本後紀』には、

「日向国諸県郡霧島岑神」

という神名が登場します。


約1,200年前に、すでに「霧島岑神」という名が国の正式な歴史書に記録されているのです。


さらに927年の『延喜式神名帳』には、同じ日向国諸県郡に「霧島神社」が記載されています。


そして霧島岑神社には、高千穂峰と御鉢の間の瀬多尾を古い鎮座地とする伝承があります。


つまり、

霧島岑神
↓
日向国諸県郡
↓
式内・霧島神社
↓
瀬多尾
↓
霧島中央権現
↓
霧島岑神社

という一本の流れが見えてくる。

もちろん、この線がすべて史料で完全につながったわけではありません。


しかし、単に「後世になって小林の人が本宮と言い始めた」というだけでは説明しにくい複数の古い材料が存在するのも確かです。


さらに興味深いのが江戸時代です。

薩摩藩側で編纂された『三国名勝図会』などにも霧島六社権現の伝承が記録されます。つまり、「中央権現」などの世界は、明治以降に宮崎側だけで作られた話ではありません。


一方、現在の霧島神宮につながる西御在所は、島津氏の厚い保護を受けて発展しました。


そして明治7年(1874)。

西御在所は「霧島神宮」となり、官幣大社に列せられます。

ここで歴史の物差しが大きく変わりました。


それまでの神仏習合による「六社権現」の世界ではなく、天孫降臨・瓊瓊杵尊・皇室とのつながりを重視する明治政府の国家祭祀制度によって、霧島神宮が制度上の頂点となったのです。


明治13年(1880)、霧島岑神社は霧島神宮の摂社となります。これは一見すると、「やっぱり霧島神宮の方が本家だったのか」と思ってしまいます。しかし、そう単純ではありません。


明治政府が作った上下関係を、そのまま古代・中世にさかのぼらせることはできません。



では結局、霧島岑神社は本宮だったのか。


現在の段階では、

「霧島六社権現の本宮だったとする有力な伝承があり、それを考えるうえで無視できない古代史料も存在する。しかし、歴史的事実として最終確定するには、さらに古い史料が必要である。」


歯切れが悪い(笑)が、面白い。

837年の「霧島岑神」。

古代の日向国諸県郡。

瀬多尾。

そして「霧島中央権現・本社」という名前。


これだけの点が残っている。

あとは、その点と点を結ぶ史料が見つかるかどうか。


もし江戸時代よりさらに古い文書から、霧島岑神社を明確に「本社」「本宮」「中央」と位置づける記録が発見されれば、、


小林の霧島岑神社の歴史は、もう一度大きく見直されるかもしれません。


「本宮だった」と決めつけるには、まだ早い。
でも「本宮ではなかった」と片づけるには、あまりにも気になる材料が多い。

今のところ、それが一番ワクワクする答えなのかも。【終り】





霧島岑神社の歴史を追っていると、どうしても避けて通れない疑問。


なぜ、霧島六社権現の伝承で「中央権現・本社」とされた霧島岑神社ではなく、

「西御在所」と呼ばれた社が、現在の「霧島神宮」になったのか。


その謎を解く重要な史料が、明治6年(1873)11月28日、鹿児島県権令大山綱良が政府へ提出した上申書です。


当時、西御在所はまだ現在のような「霧島神宮」ではありませんでした。近代社格制度の中では県社です。

ところが大山は、この神社を一気に官幣大社へ引き上げるよう中央政府に求めます。


その理由が興味深い。

上申書では、西御在所について、ここは皇孫・瓊瓊杵尊が降臨した霊跡であり、ほかに「天孫の霊廟」と見るべき場所はない、という趣旨を強く訴えています。


つまり大山が前面に出したのは、

「島津家が昔から大切にしてきた神社だから」

という理由ではありません。

「天孫降臨の地だから」

でした。


これは明治政府にとって非常に大きな意味を持ちました。


明治維新後の政府は、神仏分離を進め、天皇・皇室につながる神々を中心とした新しい国家祭祀の仕組みを作ろうとしていました。


瓊瓊杵尊といえば、天照大神の孫で、高千穂峰に降臨したとされる神。


その霊跡を祀る神社なら、国家として特別に扱うべき。大山の主張は、明治政府の政策と非常に相性がよかったわけです。


ところが、中央政府もすんなり認めたわけではありません。


政府側が気づいたのです。

「ちょっと待て。」


927年の『延喜式』に記録された「霧島神社」は、日向国諸県郡にある。


ところが大山が官幣大社にしてほしいと申請した西御在所は、大隅国曽於郡。

場所が違います。


明治7年(1874)1月、太政官側はこの点を教部省へ照会しました。これに対して提出された説明が、後の歴史を大きく左右します。


それによれば、霧島神社はもともと現在地にあったのではなく、高千穂峰と御鉢の間にある背門丘に鎮座していた。そこは日向国側だった。その後、噴火によって社殿が失われ、遷座を重ねて現在の大隅国側へ移った、との説明。


つまり、

「『延喜式』の日向国の霧島神社と、西御在所は別の神社ではない。同じ神社が火山活動によって移動したのだ」

という論理です。


政府はこの説明を受け入れました。

そして明治7年2月15日、西御在所は「霧島神宮」と改称され、官幣大社に列せられます。


わずか数か月で、大きな転換が起きたのです。


ところが、ここで小林側から見ると、どうしても一つ疑問が残ります。


「では、霧島岑神社はどうなった?」

837年の『続日本後紀』には、すでに「日向国諸県郡霧島岑神」という名前が登場しています。


霧島岑神社にも瀬多尾を古い鎮座地とする伝承があり、さらに六社権現の伝承では「霧島中央権現・本社」とされます。


つまり西御在所側が、

「もともと日向国にあった霧島神社が大隅へ移ってきた」

と説明した一方で、日向側には、

「霧島岑神」という古代記録につながる可能性を持つ神社が、実際に存在していたわけです。


しかも、現在確認できる明治7年の審査過程からは、

「西御在所と霧島岑神社を並べて、どちらが古代の式内霧島神社なのか」

を徹底的に比較した形跡は、はっきり見えてきません。


ここが実に興味深い。

明治政府が決めたのは、単純な歴史クイズの答えではなかったのかもしれません。


「古代の本当の霧島神社はどこか」という問題とは別に、


「新しい国家祭祀の中で、どこを霧島の中心に位置づけるか」

という政策判断があったと考えると、流れが見えてきます。


そして選ばれたのが、瓊瓊杵尊・天孫降臨を強く打ち出した西御在所でした。


だから、「昔から霧島神宮が一番上だった」と考えるのは少し違う。


中世の六社権現という世界と、明治政府が作った官幣大社・霧島神宮という世界では、そもそも物差しが変わったのです。


そして1880年。

かつて「中央権現・本社」とされた伝承を持つ霧島岑神社は、なんと霧島神宮の摂社になります。


なぜ、そこまでして二つの霧島信仰を一つの上下関係に組み直したのか。

「霧島神宮が選ばれた理由」は見えてきました。


しかし「霧島岑神社がなぜ摂社にされたのか」という、もう一つの謎。


霧島の歴史、調べれば調べるほど面白くなってきます。【続く】




「霧島岑神(きりしまみねのかみ)」


今から約1,200年前、承和4年(837年)の朝廷の記録に登場するのです。その史料が、平安時代の正式な歴史書『続日本後紀』。


そこには、

「日向国諸県郡霧島岑神、並預官社」

という記録があります。

簡単に言えば、日向国諸県郡にいた「霧島岑神」が、朝廷から官社として扱われることになったという内容です。これは後世の伝説ではなく、朝廷が編纂した「六国史」の一つに記録されたもの。古代の霧島信仰を考えるうえで、かなり重要な史料です。


「霧島岑神……霧島岑神社と名前がそのまま?」

しかも所在地は「日向国諸県郡」。現在の宮崎県側です。


さらに時代を進めると、927年に完成した『延喜式神名帳』にも、日向国諸県郡の神社として「霧島神社」が記載。

837年 「霧島岑神」
 ↓
927年 「霧島神社」

こう並べると、どうしても現在の霧島岑神社につながっているように見えてくる。


しかし、ここで再考。


「だから837年の霧島岑神=現在の小林市の霧島岑神社だ」と断定することは、まだできない。


なぜなら、当時の霧島信仰は現在のように「ここからここまでが一つの神社」という形ではなく、高千穂峰や御鉢を含む霧島山そのものを神聖視する信仰だった可能性があるからです。


そして現在の霧島神宮にも、古くは高千穂峰と御鉢の間の背門丘に鎮座していたという伝承があります。


つまり、「古代の霧島神」を、現在ある一つの神社だけにそのまま当てはめるのは慎重でなければなりません。


ところが、

ここから霧島岑神社側に、ちょっと期待したくなる材料が重なってきます。


霧島岑神社にも、古くは高千穂峰中腹の瀬多尾(瀬戸尾)に鎮座していたという伝承があります。


さらに中世以降、霧島山では神道と仏教、修験道が結びつき、「霧島六社権現」という信仰体系が形成されます。


その伝承の中で霧島岑神社は、

「霧島中央権現」「本社」

と位置づけられています。


一方、現在の霧島神宮につながる社は、

「西御在所霧島権現」

と呼ばれたとされます。



ここまで並べると、

837年「霧島岑神」
→ 日向国諸県郡
→ 瀬多尾の古い鎮座伝承
→ 霧島中央権現
→ 六社の本社という伝承
→ 現在の霧島岑神社

という一本の線が、見えてきます。


もちろん、この線のすべてが史料によって完全に証明されているわけではありません。でも、単なる地元の言い伝えだけで片付けるには、材料が揃っているのです。


さらに面白いのは明治時代。

1874年、明治政府は鹿児島側の西御在所を「霧島神宮」として官幣大社にします。


ところが、その後の明治初期の神社考証でも、日向側の霧島岑神社を古代の式内「霧島神社」に比定する見解が残りました。


つまり、霧島神宮が国家制度上の中心になった後も、


「古代史料に登場する霧島神社は、本当にどちらなのか?」

という歴史上の問題は、きれいには消えていない。


約1,200年前の史料に、突然現れる「霧島岑神」。


この神は、現在の「霧島岑神社」へ直接つながる神だったのか。

それとも、高千穂峰を中心としたもっと大きな「霧島山の神」だったのか。

まだ、答えは決まりません。


でも、小林市に今も残る「霧島岑神社」という名前を見ながら837年の記録を読むと、やっぱり想像せずにはいられません。


もしかすると、小林に残るこの神社の向こう側に、1,200年前の「霧島岑神」へ続く道があるのではないか、と当然感じます。


霧島岑神社「本宮説」の謎は、一段と深くなっていくのです。

【続く】






小林市にある「霧島岑神社」。

地元にいると昔からある神社として何気なく見てしまいますが、霧島神宮との関係を少し調べ始めたら、これがなかなか面白い。


「霧島岑神社」は霧島信仰の重要な“本流”だったのではないか。


そもそも霧島信仰の原点は、現在の神社の建物ではなく、高千穂峰や御鉢など霧島山そのものを神聖視する信仰だったようです。


そして「霧島岑神社」にも「霧島神宮」にも、高千穂峰と御鉢の間にあった「背門丘(瀬多尾)」付近を古い鎮座地とする伝承があります。


平安時代の837年、『続日本後紀』には、

「日向国諸県郡霧島岑神」

という神の名が実際に登場します。

「霧島岑神」

今の「霧島岑神社」という名前を知っている者としては、かなりドキッとする名前です。


さらに927年の『延喜式神名帳』には、日向国諸県郡の式内社として「霧島神社」が記録されています。ただし、この古代の「霧島神社」が現在のどの神社に直接つながるのかについては諸説あります。


霧島山では神道、仏教、修験道が混ざり合い、「霧島六社権現」という大きな信仰圏がつくられました。


その伝承の中で、「霧島岑神社」はなんと


「霧島中央権現」「本社」


と位置づけられます。


一方、現在の霧島神宮は「西御在所霧島権現」。


もしこの伝承をそのまま見るなら、「中央・本社」が小林につながる霧島岑神社で、「西御在所」が現在の霧島神宮だったことになります。


「昔は岑神社が中心だったのか?」


ところが霧島山は火山です。

噴火によって神社は焼失・遷座を繰り返します。霧島岑神社も瀬多尾付近から場所を移し、やがて夷守岳方面へ。そして1874(明治7)年には、現在の小林市細野へ移ります。


一方、西御在所は薩摩藩・島津氏の厚い保護を受けました。1715年には島津吉貴によって立派な社殿が造営され、大きな神社へ発展します。


そして明治時代、歴史が大きく動くのです。

1873(明治6)年、鹿児島県権令・大山綱良が政府に対して、西御在所を官幣大社にするよう上申します。

その大きな理由が、ここは瓊瓊杵尊の天孫降臨の霊跡であり、「天孫の霊廟」であるというものでした。


ところが政府も一度、「待てよ?」となります。


『延喜式』の霧島神社は、日向国諸県郡なのに、

申請された神社は、大隅国側にある。場所が違うではないか??と。


これに対して西御在所側は、

「もともとは日向側の背門丘に鎮座していたが、噴火によって大隅側へ移った」と説明します。

政府はこの説明を受け入れ、1874年、西御在所を「霧島神宮」とし、官幣大社に列しました。

ところが、


明治初期の神社考証には、小林側の霧島岑神社を式内「霧島神社」に比定する見解も残っています。 

また、瀬多尾、霧島中央権現という岑神社側の古い由緒も伝えられています。

つまり、


「古代の霧島信仰の中心はどこだったのか」

という歴史上の問題と、


「明治政府がどこを霧島神宮として最高位に置いたのか」

は、必ずしも同じ問題ではないのです。


その後1880(明治13)年、霧島岑神社は霧島神宮の摂社となります。

ここで中世の「中央権現・本社」という伝承とは逆に、神社制度では霧島神宮を上位となります。


では、

霧島岑神社は、本当に霧島六社権現の本宮だったのか。


現時点では、断定することはできません。


でも、837年の「霧島岑神」、

日向国諸県郡の式内「霧島神社」、

瀬多尾という旧鎮座地、

そして「霧島中央権現・本社」という伝承。


これだけの材料が残っている以上、、、、、


「昔から霧島神宮が本家?、霧島岑神社はその下?」

と単純に考えるのは、どうやら違うのではないか。


小林に何気なく鎮座する「霧島岑神社」。


その鳥居の向こうには、私たちが思っている以上に古い、霧島信仰の中心へと続く歴史が眠っているようです。


宮崎県小林市の「霧島岑神社」、歴史は真実を教えてくれるのかびっくり


【続く】




よく比較される話だが、実は日本では、コンビニより神社のほうがかなり多い。ざっくり言うと、神社:約8万社、コンビニ:約5万6千店。神社はコンビニの約1.4倍。小さな集落の神社や、普段は神職が常駐していない神社まで全国にものすごい数がある。全国隅々まであの鳥居の外観は不思議なほどにほぼ変わらない。日本の歴史が気になる・・・。


ちなみに、お寺まで加えると、

◯神社:約8万社

◯お寺:約7万7千寺

◯コンビニ:約5万6千店


神社は、

日本では古くから、山・岩・滝・巨木などに神が宿る(八百万の神)と考えられていた。特別な山や大きな岩などを神聖な場所として、祭りの時に人が集まって神様を迎え、祈る。

神聖な場所がある → 人が集まって祭る → 祭祀の場所が固定される → やがて社殿が建つ、という流れらしい。

その後、集落ができると「そこを守ってくれる神様=氏神・鎮守」という考え方が広まって、神社が地域の中心になっていった。…祭り、相撲など。


お寺は、

神社とは起源が全然違う。仏教は日本で自然発生したものではなく、6世紀ごろに大陸・朝鮮半島を経て伝わった外来の宗教。

初期のお寺は、地域住民が自然に集まってできたというより、天皇・豪族など有力者が仏教を信仰し、仏像を安置して僧侶が修行・儀式を行う施設として建立したもの。その後、仏教が広がり、お寺も地域に深く入り込む。特に江戸時代の檀家制度によって、多くがお寺と結びついた。葬式、お墓、法事などをお寺が担うようになり、現在の姿につながっている。


なので、同じ「昔から地域にある場所」でも、神社は日本古来の自然信仰・共同体から、お寺は大陸から伝わった仏教の宗教施設から始まったという違いがある。


面白いのは、この二つが混ざりあう。日本では長い間、神様と仏様をきっちり分けていなかった(神仏習合)。

今の感覚で「神社=神道、お寺=仏教」だが、昔の日本人にとっては、神様も仏様も両方大事で、共存していた。

「村を守ってもらう、豊作をお願いする、祭りをする」→ 神社
「亡くなった人を弔う、先祖を供養する」→ お寺

役割の違いはあったが、境界線は今ほどはっきりしていなかった。むしろ長い歴史の中では、神様と仏様はつながっていた。これが「神仏習合」。

仏様が日本人を救うために神様の姿になって現れたという説もある。だから、「神様を拝むか、仏様を拝むか、どちらか一つ選びなさい」なんて感覚ではなかったと思う。


実際、神社の境内にお寺があったり、お寺の中に神様を祀ったりしたようだ。神社に付属する寺は「神宮寺」と呼ばれ、神前で僧侶がお経を読むことさえある。

つまり昔の人からすると、「どちらも自分たちを守ってくれる大切な存在であり、地域にたまり場」となっていた。


現在のように「これは神社、こちらは寺」と制度的にはっきり分けられた大きな転換点は、明治元年(1868年)の神仏分離。それまで千年以上かけて混ざってきたものを、明治政府が神と仏を分ける方向へ政策的転換。

今あるような「鳥居があって神社」「仏像と墓地があって寺」という明確な区分は、古代からずっと同じ姿だったわけではないようだ。


さらに面白いのは、宮崎あたりは神話・山岳信仰・神仏習合がかなり濃い地域だということ。霧島六社権現あたりをたどると、「昔は神社と寺がこんなに一体だったのか」と具体的に感じることが多い。



2014年(平成26年)5月、人口減少化社会において、地方創生を打ち出した日本創生会議(増田寛也座長)の提唱を受け、当時の担当課長として毎週末に図書館に籠りまちの歴史を辿った結果、気付いたうちの一つ。それは「歴史ある地域のたまり場を再生すること」だった。地域住民はすでにそれを感じていたのである。【続く】






先日、警察署で30分程講義をさせていただいた。署長さん・課長さんをはじめ30人弱の丁度いい感じの雰囲気の中での講義。


驚いたのは、中央の演壇に立つと、号令がかかり、起立そして一斉に敬礼!🫡おっとびっくり😳


30年程前の地域消防団員の頃、逆の立場の経験はあるが、・・・限られた時間だったが中々気持ちのいい体験。


話の内容は成年後見制度と、事例を踏また「地域連携ネットワーク」での警察の立場での役割について説明。気持ちよくお話しできた。


警察対応案件も多岐多様化しているようで、少しでも力になれればなと思う。


こんな感じで、地域の集まりなどでもお話しさせてもらってます🙇 


ps:また、時間余裕あればたまに篠笛も披露させてもらうことも🪈


ps2:冒頭の恐竜の絵は、次男が保育園の時に書いたものです。今も昔も子供たちの感性は素晴らしい😀

反動であろうか笑 ビールの旨くなる小春日和のポカポカ陽気も追い打ちをかけ、空白期間1年へのビール補給体制に勢いがつき、今なお継続している。


今、私の体が一番喜んでいるビールは、キリンの「晴れ風」。旨い。


元々気の弱い性格であり、若い頃は酒の力で数々の失敗もした。しかし、うまくいったこと・楽しかったことの方が断然多いような気がする。


飲んできたことを全く後悔はしていない、はい😃 

これからも体調に注意しうまくお酒と付き合っていきたい。


ビールのことはこのくらいにし、そろそろ新たな挑戦である福祉の世界の話しに入りたい【続く】

キリン 晴れ風


須木焼酎

中核機関を担う一般社団法人に現在お世話になっています。


「中核機関」とは、成年後見制度を必要とする人が適切に制度を利用できるよう、地域の相談を受けたり、行政・福祉・医療・法律の専門職などをつないだりする、地域の権利擁護の中心的な役割を担う機関です。これまでの地域活動や行政経験を活かせると思ったのである。


この一般社団法人は専門職集団であり弁護士、税理士、司法書士、社会福祉士が役員を務めている。様々な課題ケースを専門的な立場から解決策を練っていく。同時に成年後見制度の実務を行なっている。


というようなことから、役所時代に社会福祉主事は任用資格として取得していたが、前述のような環境でもあり、社会福祉士国家資格にチャレンジすることとした。


そのために大きく2つのクリアが必要。


1つ目は、受験資格を取得すること。そのために葉山町にある中央福祉学院に入学し、スクーリングと多くのレポート提出が必要だった。


2つ目に国試対策。中央福祉学院の受験資格はレポート提出に不備があれば卒業できない。国試対策は、この受験資格と並行して勉強をしなければならないのである。


途中、60歳を過ぎて大変なことにチャレンジしてしまったと何度思ったことだろう。


というようなことで、昨年1年間は平日は仕事終了後に4時間、週末8時間の猛勉強をする羽目となったのである。


このため1年間は大好きなダレヤメ(ビール・焼酎)をほぼ絶つことともなった⤵︎ 【続く】

60歳、還暦を折にあらたなチャレンジをしてみたかった。自治体職員として長年お世話になった節目の判断。


そのまま継続し働くこともできた。家族もそれを望んでいたかもしれない。しかし、一度しかない人生、チャレンジすることを選んだ。

役所時代は39歳で係長、50歳で課長、57歳で部長職を拝命し責任も重くのしかかってくる。でも、様々な職場での経験が、今も私の心の肥やしとなっている。役所時代は多くの大先輩に大変お世話になった。


年を重ねる中で、当時の同僚や部下たちの活躍・奮闘にも刺激を受け、お互い鼓舞し合いながら仕事をしてきた。苦難の中にも楽しさがあった。思い出せばきりがない。いい思い出ばかり。


また、若い頃から青年団、消防団などの地域活動や、仲の良かった同級生らとの活動を思い出すと、関わった面々に感謝の思いである。


役所退職後は自治体の出資するベンチャーに勤務。しかし、自分の思い描いていたものと違い苦痛となり半年で離れることとなった。


その後、ひと月程ぶらぶらした後、縁あって福祉関係職として就職。役所時代に福祉・医療介護関係の業務に11年程携わったことがきっかけとなった。【続】