【散歩】たみ散歩「東京・中井」Vol.31 昭和の漫画「天才バカボン」にも描かれた街を散策する②
引き続き、西武新宿線と都営大江戸線の2路線が乗り入れる新宿区北西部、中野区との境に位置する街「中井駅」周辺をご紹介致します(前回の記事はこちら)。
「上高田一丁目」の三差路まで出てきました。
「上高田中通り」まで出てきましたが、「新井薬師前駅」方面には行きませんので、今度は落合公園方面に行きます。
萬昌院功運寺のお隣に「まこと幼稚園」という幼稚園がございました。
お寺のような門構え。ちょっと変わった幼稚園です。萬昌院は、赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓があります。
説明書きがありましたので、読み上げてみます。
この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正二年現在地に移ってきました。
幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・義央の四代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。
義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
(中野区教育委員会掲示より)
「上高田一丁目」の三差路から細道を進んでいきます。
「願正寺」。
浄土真宗大谷派の寺院「願正寺」。天正18年(1590年)に開基である法樹院安養坊了善法師が外神田に創建したもので、本尊に阿弥陀如来を奉っています。
墓地には、外国奉行・新見豊前守正興とその父親で大阪町奉行を務めた新見正路の墓があります。新見豊前守は万延元年(1860年)に、アメリカ軍艦に乗って日米修交通商条約の批准書交換のため渡米しました。
大正7年(1918年)にモーリス、昭和35年(1950年)にはマッカーサー駐日大使が、日米修交の大役を果した新見正興の墓を詣で、日米親善の記念樹を植えています。
再び妙正寺川まで戻って参りました。
「水車橋」。
この中井は、妙正寺川がありますので、橋を渡らないと、坂上の中井方面には行けません。妙正寺川を挟んで落合と中井で分断されているような街並みとなっています。
この日は梅雨入り前でしたので、お日柄もようございました。
「落合公園」まで来ました。
都心にあるのにみどり豊かな落合公園。
この辺りに住む方の癒しの場になっているのは想像に難くありません。ちょっと小生も休憩致します!
「木に縁りて魚を求む」
魚は水中にすむものだから、木に登って魚を探しても得られないということから、手段を誤れば、何かを得ようとしても得られないということ。
果たして木に登って魚を探しているのだろうか。
この日は学生さんがこの公園でフルートの練習をしていました。ここならいくら練習しても気にしなくてすみますね。
ここから「栄通り」を進んで、「坂上通り」まで行きます。
今日はここで御終いです。お次は「【散歩】たみ散歩「東京・中井」Vol.31 昭和の漫画「天才バカボン」にも描かれる街を散策する!③」をお届けしますので、お楽しみに!
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written by たみと@プロマリ