【散歩】たみ散歩「東京・東向島」 Vol.23 墨田区の閑静な住宅街からスカイツリーを望む!② | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【散歩】たみ散歩「東京・東向島」 Vol.23 墨田区の閑静な住宅街からスカイツリーを望む!②

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前回に引き続き、墨田区の閑静な住宅街「東向島」のぶらり散歩をお届け致します(前回の記事はこちら)。

ここにも葛飾北斎が描いた風景が御座いました。

 

 

実はこの絵画は「絵本隅田川両岸一覧」といって隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリーズなんです。画面の奥には名勝地として知られていた白髭神社の鎮守の杜が配されています。

さてその白髭神社をお参りしてきます。

 

 

白髭神社の神社門前には明治時代の書道の大家で知られる「西川春洞」の住居跡が御座います。

 

 

日下部鳴鶴と並び明治の漢字書道界で多くの門下を擁していました。今日の漢字書道界の基礎はほとんどこの2人の系列を中心につくられとされます。

かつて、白髭神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流か運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていたそうです。町名に「寺島」が現在でも有って、また、小学校や中学校そして図書館などに「寺島」の名称が使われています。
 

 

享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(かそ)とす。」また、文政11年(1928)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中びて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。

 

 

農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(つちものだな)(青物市場)等に出荷していたといいます。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

こちらが白髭神社の本殿です。

 

 

祭神の猿田彦命は道案内の守り神とされます。ですので接客業などお客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰がございます。隅田川七福神めぐりの一カ所になっている神社でもあります。

こちらは墨堤通りにある「セイコーミュージアム」

 

 

この日は閉まっておりました。 「時」「時計」に関する広範囲な標本・資料を収集しており、主に日本の時計産業の成立・発展の歴史を紹介しています。

墨堤通りから地蔵坂商店街への入り口のところには「子育地蔵尊」があります。

 

 

この子育地蔵堂隅田川堤防改修中に得た石造りの地蔵尊を、庚申塔のあった当地に祀ったことに始まります。始めは村の子供たちが、御輿がわりにこの地蔵をかついていたそうです。

この地蔵尊から東武伊勢崎線曳舟駅方面に向かって「地蔵坂通り」と呼ばれる商店街が御座います。

 

 

30店舗くらい水戸街道と墨堤通りとの間のこの商店街の辺りは昔は「ツル土手」と呼ばれ、江戸期以前の海岸線であったとされます

スカイツリーの建設で墨田区は街並が大きく変わりましたが、この辺りは昔ながらの商店街が立ち並んでいます。平地の多い東京東部でも珍しい名前の付いた坂道でもあります。

 

 

そして向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。

 

 

幸田露伴もその一人です。

 

 

『五重塔』『運命』などの作品が知られています。1897年(明治30年)から約10年間住んでいた「向島蝸牛庵」は今は愛知県の博物館明治村に移設され、その向島蝸牛庵の後は今は「墨田区立露伴児童公園」になっています。

「蝸牛庵」とは露伴氏の家のことで、若い頃から転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に譬えたのが由来とされます。

 

私もヤドカリのような日々を送っております。

 

 

「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴。尾崎紅葉坪内逍遥森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもあります。

こうやって文学者の歴史を紐解いていく散歩も面白いですね。

 

 

こちらは江戸時代の浮世絵師「歌川広重」の狂歌碑です。

 

 

歌川広重は風景画の第一人者として幕末に人気を誇った浮世絵師です。1830年代、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の人気を受けて風景画ブームが訪れようとしていた頃、当時新進気鋭の広重が世に送り出したのが保永堂版「東海道五拾三次之内」シリーズでこの作品は大ヒットし、広重は一躍人気絵師となりました。

「師祖豊広翁辞世 死んでゆく地獄の沙汰はともかくも あとの始末は金次第なり 二世広重建之」と刻まれています。なんとも江戸っ子らしい最後ではありませんか。

さらに「地蔵坂通り」を歩いていきます。

 

 

明治から昭和にかけては墨田川ではレガッタ(ボートレース)が盛んに行われました。この辺りには競技用のボートを収納するための艇庫が建ち並び、親しみを込めて「艇庫村」とも呼ばれていたそうです。

 

 

明治二十年(1887)、ここから約700メートル南の川沿い、現在向島五丁目に、日本で初めてとなる東京大学の艇庫が建設されました。その後、各校が向島に艇庫を建てるようになり、やがて堤通一丁目には独特の風景が形づくられました。レガッタ(ボートレース)と学生たちの練習風景は墨田川の風物詩となり、大会の開催時には多くの人々が応援や見物に集まったとされます。

しかし昭和三十五年(1960)頃から、墨田川の水質悪化や高速道路建設などのため、多くの艇庫が他の地区へと移りました。最後まで残っていた一橋大学 の艇庫も昭和四十二年(1967)に移転し、向島艇庫村の風景はなくなりました。 

その後、水質改善の努力が続けられた結果、昭和五十三年(1978)には早慶レガッタが復活しました。また昭和五十六年(1981)からは、「水の週間」を記念したウォーターフェア墨田川レガッタが開催されるようになり、現在も続けられています。 

今日はここで御終いです。お次は「【散歩】たみ散歩「東京・東向島」 Vol.23 墨田区の閑静な住宅街からスカイツリーを望む!③」をお届けしますのでお楽しみに!

written by たみと(たー)