【宮城】伊達政宗の生涯を追う!松島「みちのく伊達政宗歴史館」で波乱に満ちた武将の生涯に触れる① | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【宮城】伊達政宗の生涯を追う!松島「みちのく伊達政宗歴史館」で波乱に満ちた武将の生涯に触れる①

大正・昭和の懐かしいおもちゃを8千点も集めた博物館「松島レトロ館」を訪れた後(記事はこちら)、向かった先は同じく松島にある「みちのく伊達政宗歴史館」へ。


「みちのく伊達政宗歴史館」は、伊達政宗公の生涯を、等身大ろう人形を使って再現した歴史博物館です。200余体のろう人形で伊達政宗の波乱に満ちた一生をわかりやすく学ぶことができます。

 

 

伊達政宗公と言えば、「独眼竜」として有名な出羽国と陸奥国の戦国大名です。2016年のテレビドラマ『真田丸』が記憶に新しい所ですね。
 

 

入場料は大人1,000円、小・中学生500円です。

早速入館すると、騎馬に乗った今にも敵国を滅ぼさんとばかりに血気に満ち溢れた独眼竜政宗公が登場。

 

 

伊達政宗所用の「黒漆五枚胴具足」。

 

 

鉄地黒漆塗りの五枚胴、頑丈な六十二間筋兜、左右非対称の弦月形をした金箔押し前立からなる仙台胴とも呼ばれたこの具足。政宗自身の美意識が表れています。

伊達政宗公の心を訪ねてみることにします。

 

 

会津はお馴染みの会津藩主松平容保公の蝋人形です。

 

 

容保公は、京都守護職として尊攘派のテロリズムが荒れ空う京の治安回復に努めました。会津若松城の籠城戦は今も尚会津の地で語り継がれています。

まるで戦国の世に迷い込んだかのような精緻な蝋人形。

 

 

政宗公は幼少の頃は「梵天丸」と呼ばれていました。

 

 

五歳になった梵天丸に衝撃の出来事が起こりました。疱瘡(天然痘)にかかってしまったのです。一命はとりとめましたが、なんと右目を失明してしまったのです。

ある日梵天丸は「不動明王」の像を見て、寺僧に、これはなにかと尋ねました。

 

 

寺僧は、「不動明王です」と答えると、「仏はやさしい心を持っているのに、どうしてこんな恐ろしい顔をしているのか」と梵天丸は尋ねたそうです。

寺僧は、「不動明王は大日如来(だいにちにょらい)が、一切の悪魔を降伏するため、忿怒の相を現したもので外は剛、内は慈悲をそなえたものです」と答えました。梵天丸は若くしてこの言葉をくみ取り、「そうか」と納得して頷いたのだそう。

父輝宗は梵天丸(政宗公)を愛していました。

 

 

しかし、梵天丸は片目であるため、その心までも歪み捻じれてはと、当時名僧といわれた虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚を梵天丸の師として招きました。また、お守役として片倉小十郎景綱をあて、景綱を相手に梵天丸は、激しい武芸の修行を続けました。

さらに伊達政宗の生涯を追うために2階へ進みます。

 

 

政宗公の花押(かおう)です。

 

 

一世一代の大博打「鶺鴒の花押」。花押に針の穴がない事を秀吉に主張したことは知られていますよね。

梵天丸は若き頃からその非凡な才能を発揮していました。

 

 

詩歌、茶道、書道、能など文化人としての天性の才を見せ、父輝宗や虎哉和尚を喜ばせたといいます。

そして、梵天丸はなんと、13歳で結婚してしまうのです。

 

 

お相手は三春城主、田村清顕(たむらきよあき)の娘愛姫。花嫁は11歳だったといいます。天正7年(1579年)冬の、雪の舞う米沢城での出来事です。

ここから政宗は若くして英俊豪傑の武勇伝を後世に残していくこととなります。

今日はここでお仕舞です。

 

引き続き、独眼竜政宗の生涯を皆さまにご紹介します。

お次は「伊達政宗の生涯を追う!松島にある「みちのく伊達政宗歴史館」で波乱に満ちた武将の生涯に触れる!②」をお届けするのでお楽しみに!
 
written by たみと(たー)